また聞きたい

ちょっと内緒で聴聞ノートを一部アップします。不適切な場合は削除しますので気になった方はご連絡ください。なお、実際に話されたことと、聞いてノートして文章にするのとはニュアンスが違うこともあることを申し添えます。


金沢真宗会館にて
真宗のご本尊は「南無阿弥陀仏」、はたらきとなった如来。はたらきとは「正信讃※」にあるように、「つきせぬいのちのほとけにきみょうし」、そして本尊は「はてなきひかりのほとけにきみょうす」。つきせぬいのちは慈悲、はてなきひかりは智慧、私たちは智慧と慈悲に会っていく。
慈悲ということを亡くなった竹中智秀先生は「選ばず、きらわず、見捨てず」「摂取不捨」とおっしゃった。いつでもどこでも私たちはそんなはたらきにおうている。

いのちということについて、弥陀の本願は一切の者に念仏させることを願う。たとえば親であれば自分だけの幸せというのはあり得ない。私も親であるけれども、子どもが苦しんでいるときに自分だけ幸せということはない。そういう面では親子は共にある。それと同じく、阿弥陀仏は一切衆生と呼びかける。

はてなきひかり、智慧が光となって無明性を破ってくる。教えにあうということは、我執が破られていくということ。私たちは煩悩具足の凡夫、一回聴いたくらいでどうにもならない。破られ破られ、照らし照らし続けていかんなん。

仏さまは向こうに置くのではなく、対象としておがむものでなく、智慧・慈悲のはたらきにあうこと。

私たちはお参りの最後に「願以此功徳」を勤めるが、願以此功徳は終りではない。仏の功徳をどういただいているか。いただいたらどうなる。同じく菩提心を起こす。それは思いもよらないことが私の中に起こったということ。私たちのねがいというか、欲は無限にある。私たちはそれが満たされれば満足と思っているが、それは迷い。先生方は「このこと一つが満足しなかったら、いのちそのものがよろこばない」とおっしゃってこられた。それを「いのちの根源的な要求」とおっしゃってこられた。そうしたら往生する。安楽国に生まれる。それこそがいのちの根源的な要求。普く一切の衆生と共に。

歎異抄第二条に

二 おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。

いのちがけ、そこまでして求めずにおれない姿。「往生極楽のみちをといきかんがためなり」みなさんはここに座られているけれども、義理や人情で来たのではない。気づかないだけで、みなさんは往生極楽の道を問い聞くためにここに来られている。心・体は深いところでこのことを願う。このことを後生の一大事という。それではどうしたらいいかと問えば「唯念仏して」と親鸞聖人は答える。念仏、南無阿弥陀仏が本尊、それは限りないいのち・光。そして聞其名号・信心歓喜が一つ。どこまでも聞き続けていくことの他に私たちに道なし。
※「正信讃」−しょうしんさん、歌。赤本75ページ