祠堂経故郷に錦満座(前半) あいかわらず浄土真宗の仏事について

昨日はじいちゃんが今重体なんだと、90歳になって、耳がとおなって、立派な身体を持っているのになまくらで寝てばっかりおって、足も弱ってきた。いつの頃からか「くいちゅぶ」になって、おひつを開けてばっかりおって、なんでも取っててっては食べて叱られとった。挙げ句のはてにあろうことか食べ物でないもんを食べて、飲んだら死んでもう消毒液を飲んでしもて、今たいへん危ない状態なんだと聞いていただいていた。法話でなくて愚痴みたいやね。


そんなじいちゃんが私に手渡してくれた、「お念仏の教え」。今日の讃題は『歎異抄』第三条です。どれくらい前のことかもう忘れましたが、「○○ちゃん、自力作善とはどういうことか」と聞かれたことがありました。


讃題の『歎異抄』の言葉にかえりますと、

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。
この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。
そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

自力作善というのは「自分で善を作れると思っている人、自分の力でよりよい世界を作れると思っている人、自分の力を信じている人」だと思っていますが、どうでしょうか。そんなふうに習ったし、そう思っている。じいちゃんが何を聞きたかったのかいまだにわからない。どうですかね。
もしかしたら、21歳から坊主になって、本山の仕事をして、聞法会に通って、相手を見ないで、「そんなのは念仏の教えでない」と偉そうに指摘することもあった、私の思い上がりを指摘したのかもしれません。


さて、今日は言うまでもなく、「永代祠堂経」が勤められている。これどういうことなんですかね。先ずはじめに『歎異抄』の五条

親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。

そう言う言葉があります。念仏は供養のための言葉ではない。


それから、これは「恵信尼消息」というて、親鸞の添いあいの恵信尼さんのお手紙の中の言葉、(ちょっと余談になるかもしれませんがね)

よくよく案じてみれば、この十七八年がそのかみ、げにげにしく『三部経』を千部読みて、衆生利益のためにとて、読みはじめてありしを、これは何事ぞ、自信教人信、難中転更難とて、身ずから信じ、人をおしえて信ぜしむる事、まことの仏恩を報いたてまつるものと信じながら、名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするや、思いかえして、読まざりしことの、さればなおも少し残るところのありけるや。人の執心、自力の心は、よくよく思慮あるべしと思いなおして後は、経読*620むことは止りぬ。

そう言う言葉がある。飢饉や疫病で周りのたくさんの人が死んでいく。「どうかこの災いがおさまるように」親鸞聖人は思わず三部経を読んだ。そして、「これは何ごとぞ!」「念仏の他に何が足りないと言える、何で私はお経を読もうとする!」と思い返して、「人の執心、自力の心は(自分がお経を読む力でなんとかしよう、功徳を振り向ける)、よくよく思慮あるべし(どこまでいっても止まない深いものである)と思いなおして」「お経読むことをやめた」という話です。


永代祠堂経というのは、字からいくと、永代に、ずーっとやね、祠堂というのはお堂に祠るということやね。ほしてお経に会う。
誰が?
お堂に祠るのは、亡くなった人やね。私らもお葬式が終わったら永代祠堂経料が上がる。法名を持ってきていただいてお経をあげる。お経にあうのは誰かね。
親鸞聖人は死んだ人のために念仏称えない。念仏を称えた功徳を亡き人に振り向けたりしない。
読んだお経は衆生利益のためでない(みんなが幸せになるように願ってお経をあげるのでない)お経にあうのは残された私たちですね。亡き人を縁としてお経という仏の言葉にあう。


みなさんはお釈迦さま、釈迦如来、と阿弥陀仏の違いをご存知ですね。
お釈迦様、釈尊釈迦牟尼仏、釈迦如来は、教主(おしえぬし)、実在の人、
阿弥陀仏阿弥陀如来は、救主です。
教主のお釈迦様が阿弥陀如来の救済を説いた。お経の内容は阿弥陀さんが全ての人が救われる誓いを建て仏になったということで、それを釈尊釈迦牟尼仏が語った。お念仏の教えを語った。


浄土真宗の仏事は、この永代祠堂経も、法事も、月忌参りも、みんな一緒なんですが、お念仏の教えに会うこと一つが願われている。死んだ人のためにお経をあげるのでない。


蓮如上人御一代記聞書』に「仏事は讃嘆(さんだん)・談合(だんごう)にきわまる」という言葉があります。浄土真宗の仏事は讃嘆・談合なんだ。それが真宗の儀式です。
「讃嘆」とは1.勤行2.法話がそうです。
「讃嘆」というのは、褒め称える、感動するということです。
お念仏の教えを「お経」にしていただいて、法話は念仏の教えにに遇うた(おうた)喜びが語られる、
それから「談合」というのは、1.示談(じだん)2.改悔(がいけ)
1.示談(じだん)とは、自分はお念仏の教えをどういただいているか、それを語り合う。それを示談という。(そういえば御示談大会がありましたね。)
2.改悔(がいけ)とは、特別に報恩講の時だけ。親鸞聖人の御影の前に示談する、自分のギリギリのところを申し上げる。悔い改める、ということは、さらけ出すことによって、自分の殻が破れる、それを改悔という。
「仏事は讃嘆(さんだん)・談合(だんごう)にきわまる」
もう少し付け足しますと、讃嘆・談合は二つのものでないんだと、これは不二であると。讃嘆は勤行・法話、談合は、示談・改悔というのは、一つのことから二つの相を持っているというくらいのことで、これも大事、あれも大事、ということでない、「不二」二つなんだけど、一つ、出所は一つなんだ、そのことを表す言葉に従如来生(じゅうにょらいしょう)と言う言葉がある。(『教行信証』280証巻 御自釈)阿弥陀如来が娑婆に現れた、それを様々にあらわされている、勤行・法話、示談・改悔 みんなそうなんだ。語り合いを仏事とする、そういう教団は他にはない。


これは太田浩史先生に聞いた話なんですけれども、大好きで、はじめての所では必ず話しています。もちろん、四十九日はまずこの話ではじまっています。だから、お斎があるんでないですかね。それから、祠堂経ではおんみゃかしを集める休憩の時間、またあれも大事な時間ですね。私ら知らんうちに脈々と、語り合いを仏事とする、そういうことが受け継がれてきた。なんか感動しませんか?


親鸞は父母孝養のためとて念仏もうしたることいまだそうらわず
父母の供養のため追善のために念仏申さない。浄土真宗の仏事はお念仏の教えにあう場として願われてある、そして語り合いも大切な仏事である、そういうことをよく思います。