お講の予習『歎異抄第十四条』意訳(2)

参考:『歎異抄講話3 高倉会館法話集』(著者:廣瀬杲 発行:法蔵館)
そのゆえは、弥陀の光明にてらされまいらするゆえに、一念発起するとき、金剛の信心をたまわりぬれば、すでに定聚のくらいにおさめしめたまいて、命終すれば、もろもろの煩悩悪障を転じて、無生忍をさとらしめたまうなり。この悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人、いかでか生死を解脱すべきとおもいて、一生のあいだもうすところの念仏は、みなことごとく、如来大悲の恩を報じ徳を謝すとおもうべきなり。

そのわけは阿弥陀智慧の光に照らされ、そのおはたらきに目覚めて、金剛のように確かな信心を賜る身となるとき、その身は既にして必ず仏と成る人生を行き続ける存在とならせていただいたのであるから、命終るときあらゆる煩いや悩みや悪しき障りは、すべて転ぜられて、大いなる解放の世界へ解放の世界へ生まれる事は間違いないのである。これはすべて阿弥陀の本願のはたらきなのであり、こうした本願がなかったならば、この浅ましい罪の身を生きる私たちはどうして生死の苦悩から解放されることがあろうかと思い知るとき、一生涯申す念仏は、みな、この阿弥陀の本願によって救われることに対してのご恩報謝である、と頷くことができるはずである。

念仏もうさんごとに、つみをほろぼさんと信ぜば、すでに、われとつみをけして、往生せんとはげむにてこそそうろうなれ。もししからば、一生のあいだ、おもいとおもうこと、みな生死のきずなにあらざることなければ、いのちつきんまで念仏退転せずして往生すべし。ただし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあい、また病悩苦痛せめて、正念に住せずしておわらん。念仏もうすことかたし。そのあいだのつみは、いかがして滅すべきや。つみきえざれば、往生はかなうべからざるか。

このような道理を取り違えて、念仏を称えるたびに罪科を滅ぼすことができるのだと信じようとすることは、結局は自分の力をもって自分の罪科を消滅させて往生しようと励むことでしかないであろう。もしそうだとするならば、人間の一生の間いついかなる時の思いであっても、すべて生死の苦悩の繋縛でないものは決してないのであるから、命尽きるその時まで念仏を称え続けて往生しなければならない、ということになるのであろう。ところが、私たちの生活行為というものは、もともと限定のあるものだから、どのようなことで、病気などで苦しむことになり心静かに念仏申すこともできなくなるかわからない。とするとその間に造った罪科はどのようにして滅し去ることができるというのか。さらにはまた、ほんとうに、罪科を消し去らねば往生はできないということなのであろうか。いや決してそうでは無い。

摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、罪業をおかし、念仏もうさずしておわるとも、すみやかに往生をとぐべし。また、念仏のもうされんも、ただいまさとりをひらかんずる期のちかづくにしたがいても、いよいよ弥陀をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそそうらわめ。罪を滅せんとおもわんは、自力のこころにして、臨終正念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにてそうろうなり。

摂め取って決して捨てることはないという阿弥陀の本願によって生きるのであれば、どんなに思いもかけない罪科を犯してしまい念仏申すこともできないままで一生がおわるとしても、ただちに往生をとげるのである。
また、念仏申すことができるということも、往生して涅槃の境界に近づくことになっても、すべて阿弥陀のお力によることと知り、そのご恩の有難さを思い、お礼を申すばかりである。自分の称えた念仏の力によって自分の罪科を滅し去ろうと考えるのは、自力の心であって、それは臨終に心を取り乱すまいと祈る人の身勝手な意向であるから、他力の信心とはまったく異質のことなのである。