今年は一周忌

みなさん、今夜は 慈光院釋尼知法 ○ さん のお通夜ということで、ようこそお参りくださいました。

少し前から具合が良くないことをうかがっていたのですが、

訃報をうけてお参りにいきまして、お顔を拝見しましたら
きれいにお化粧がしてありまして、

親切に親切にして下さった日々を思い出していました。
こんなことをいうと失礼かもしれませんが、
瓶の底のような分厚い眼鏡をした、とっても優しい方でしたね。
「とても優しい人だった」と思っているのは私だけではないはずです。

○さんの院号法名は、
十数年前に大病をされたときに、11年前に亡くなった私の父がつけたものです。
慈しみの光と書いて
慈光院釋尼知法
優しい人だったことが名前から伝わります。光が照らすように明るい方でもありました。

もう20年以上も前だと思いますが、私のおばあちゃんが元気だったころ、月参りに送ったものでした。運転手をしていた。私は愛想のよくない娘で、
お経が終わるまで車で待っていることが多かったのですが、
○さんは車で待っている私に「家に上がるまっし」と呼びに来る。
「いいです、ここで待っています」といっても「ほんなこといわんとあがるまっし」「いや、いいです、ここで待っていたいです。」それでも「ほんなこといわんとあがるまっし」と、言う方で。
そんなやり取りが三度ほどありましてから、もう○さんのところに参りに行く時は、だまって車を降りてばあちゃんについていって、茶の間でNHKみて待っとることにしました。一見特別で無いような今になって思えば本当に特別な時間です。親切に親切にして下さいました。笑い顔が目に浮かびます。

○さんの法名「知法」は本山でいただいたもので、「大経」にある言葉です。
親鸞聖人は、八万四千お経があるといわれる中から3つだけ
無量寿経 大経
観無量寿経 観経
阿弥陀経
浄土三部経として大切にされましたが、中でも大経は「真実の教えが大経に書かれている」と教行信証に書かれていて、一番大切にされていたといっても過言はありません。

この「知法」という言葉の前後をお伝えしますと、
ちょっといじくらしいかもしれませんが聞いてください。

すべてのものは夢や幻やこだまのようであるとさとりながらも、
 さまざまなすばらしい願(がん・ねがい)を満たして、必ずこのような国をつく
 ることができるのである。
 すべては、稲妻や幻影のようであると知りながらも、菩薩の道
 をきわめ尽し、さまざまな功徳を積んで、必ず仏になることができる。
 すべてみな、その本性は空・無我であると見とおしながらも、
 ひたすら清らかな国を求めて、必ずこのような国をつくること
 ができるのである

「法」という言葉は「諸行無常」「諸法無我」という言葉で親しまれてきた「法」で、「すべてのもの」という意味です。

諸法無我」、今お伝えした大経の言葉でいうと、すべてのものは、
夢や幻、響(こだま)のようである、稲妻、幻影のようである、空無我である。

と、知りながらも願いのあるものはその願いがかなう
阿弥陀さんの誓いの力によって、不思議にすくわれる。
そう書かれています。

ただし、願いの無い人のことは書かれていません。道を求めていない人のことは書かれていません。皆さんには願いはありますか。
欲しいものはなんですか?でかいテレビ、新しい車、お金、そうでなくて、
健康ですか。それらは本当に欲しいものですか。
それは私が生きる願いになりますか。
昨夜、○さんのおうちで仮通夜がありました。
暑い夜でしたが、ご親戚や在所の人が大勢集まって、「通夜ぶるまい」の席が設けられていました。○はあったかい村です。
正直すっかり目にすることが少なくなった光景です。
少し前までは当たり前だったことが、簡略化されて無くなってしまっています。
けれども、当たり前に続けられてきたことに意味があるはずです。

お葬式さえ簡略化される時代です。
なぜ簡単にされるようなったのか、
そしてなにが大切にされてきたのか。

お葬式は、亡き人を縁として
諸行無常」「諸法無我」であることを忘れて生きていることを、
願うことも 求めることも 忘れて生きていることを
知らされる場であったと思います。

そして願いを与えられた場であったと思うのです。