自坊の永代祠堂経法話に際して

カレンダーの言葉が気になっていた。太いマジックで塗りつぶして消したら、なんだか余計目立った。
生きているということをねうちのあるものにのしなければ
と、書かれている。では、ねうちのないいのちとはなにか、それを決めるのはなにか、そんなことを決めれる偉いものか、そういうことを考えたら腹が立って、嫌になった。

念仏の教えを「味わう」という言葉があるが、方向を考えて、考えたら味わえることもあるかもしれない。
でもやはり、私は、「浄土真宗の教えはよいものになっていく教えではない」という言葉が好みです。
これは高山の四衢亮さんという方の言葉ですが、
善導大師の言葉に「経教は鏡なり」という言葉がある。私たちは自分の顔も姿もなにかに映してしか見ることができない、教えの鏡は見たくない自分まで映しだす。でも、「浄土真宗の教えはよいものになっていく教えではない」うつされ、きづかされた私を、その教えを信頼して、だからこそ、念仏申して生きる身になる、まさに歎異抄の「悪人」です。
三 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。

念仏申すしかない私として、素直に、謙虚に聞いていく。

お互いに「見たくない私」は、なんだろうか、案外、「思い出したくないこと」なのかもしれません。でも実はそこで私に出遇うのかもしれません。
また、まさに一つ一つ歳を重ねて、豊かになっていくということは、悲しみや痛みも「豊か」ということの内容で、ねうちがある生き方ということも、そういうことをさすのではないか、と思います。