愚身の信心におきてはかくのごとし。

浄土宗のいとこが法然上人の言葉を伝えてくれた。

ただ、往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思とりて申す外には、別の子さい候わず。
『一枚起請文』源空述 (「真宗聖典」p.962)


この言葉にピンとくるのが、『歎異抄』第二条である。

親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。


親鸞聖人が「よきひと」といったのは法然上人で、「よきひとのおおせ」というのは、
「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」である。
でもこんな言葉が続く

念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。

そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。

いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。

詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々

愚身の信心におきてはかくのごとし。


「ただ、往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思」えなかったのかな。親鸞聖人は。