光明寺通信2018秋

アレフ」という教団信者の脱会支援をしている友人が、生きることに迷って悩んですくいを求めて、浄土真宗の寺にお話を聞きに来る人はいないのだと言います。寺でお話をしていても、僧りょたちはお勤めが終わると当たり前のようにそそくさと帰る。そんな話を大事だと、誰が思えるだろうかと。

 配布カレンダーを準備する時期になりました。当寺は祖父の時代からずっと真宗教団連合法語カレンダーを利用しています。法語カレンダーは昭和四十八(一九七三)年、親鸞聖人ご誕生八百年と立教開宗七五〇年を記念して発行されて以来、現在の発行部数は二三〇万部を超えています。私が月参りに行くお家は、もう何十年もその紐を掛ける場所が決まっているところがほとんどです。

 私が二十代の頃にお話を聞きに通った和田先生の言葉が、二〇一五年十二月に紹介されています。先生のお寺には何だかいろんな人がいて、それを「有象無象」と懐かしんでいます。お葬式の時に耳にする「道俗時衆等(どうぞくじしゅうとう)」です。

生活の中で念仏するのでなく 
念仏の上に生活がいとなまれる
              和田稠

 その言葉はずっと指針のように思えます。思えば、自分にとって寺に住んでいるということは、毎日この先生方の法語に親しんできたことであり、幼い頃から頭の隅っこで、それはどういうことなのか、考えてきたように思うのです。

 この年以降、法語カレンダーは、親鸞聖人の言葉と英訳が書かれています。正直、もっしょないなと、思っています。二〇二〇年は、変えるかもしれません。生きることに迷って悩んですくいを求めた人たちの言葉に遇いたいから。
               平成三十(二〇一八)年九月二〇日 釋尼光寿