追悼法会―念仏いりますか?

今日は「念仏いりますか?」という題の原稿を作ってきました。(30分前に仕上げました。)
よく図書館へ行くのですが、行ったら忘れずに『マンガ日本昔話』のビデオを借りてくる。私の子どもの頃に放映していたから懐かしく、娘も気に入ってくれている、当然母も喜んで観る。図書館だから無料と言うのがうれしいところ。これまでたくさん観たが、意外に坊さんが出てくる話や念仏が出てくる話がたくさんある。これらは昔話ではヘビロテアイテムだといえる。ということはそれだけ身近だったのだろう。はたまた御利益(ごりやく)があったのかもしれない、今と違って。

「念仏の鼻」というお話を観ました。

昔々、瀬戸内海に浮かぶ小さな山の山頂に一人のやまんばが住んでいた。
ある日、海に船頭の親子が船を出していた、突風にあおられ立ち往生していた。どうしようもないので、見つけた薄気味悪い島に、船をつけることにした。


島についた二人は枯れ枝などで焚き火を起こした。するとそこに「たき火かね、わしもあたらしてもらおう」と大きなやまんばがやってきて、焚き火に手をかざした。恐れをなした息子は隙をついて逃げ出そうとするが上手くいかない。しばらく無言の時が流れた。やまんばは(人というご馳走を得た満足感から、)焚き火で気持ちがよくなったのか居眠りを始めた。息子が立ち上がって船の方に走ると、やまんばが「どこへ行く?」と声をかけた。親父が「船にある鯛をとってこようと思って」と答える。船の方に走っていった息子が「オヤジ、鯛はどこじゃ?」とたずねる。親父はやまんばに「場所がわからんか、ちょっとみてくる」といって船へ向かった。


やまんばは居眠りをしているから気がつかない、二人はこの時ぞとばかりに逃げ出した。風も味方してくれたのだが、船が岬の先端近くを通ろうとした時に、すでにやまんばが岬に立って、「どうしたんじゃ、どこへ行く」といってにやにや笑った。


漁師の間では、やまんばの乳が船にかかると船が動かなくなるという言い伝えがあった。やまんばは白い乳をピューピューと船に向かってかけた。船頭たちはかわしながら必死で逃げる、なんとかもう少しで逃げ切ることができると思ったその時に、ひとしずく、船の舳先(へさき)にかかってしまった。「艪(ろ)が動かない!」と息子が悲鳴をあげる。親父は必死で乳のかかった舳先(へさき)を包丁で削ったが船は動かない。「もうだめだ」息子があきらめた時、親父は何を思ったか、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・・・」と一心に念仏を称えながら包丁で削った。


「う、う、うー、・・・」やまんばが泣き出した。そしてやまんばは泣き続けた。
なんと船は再び動けるようになった。
人間を食べてしまうというやまんばに念仏のありがたみがわかったのでしょうか、いつまでも岬の先端に立って泣き続けたそうな。

そういうってナレーションがあって終わるのですけれども、どうですかね、人喰いやまんばが泣いたような念仏を私たちは聴いたことがあるのでしょうか。

ここにいる人の誰一人として、最初からお念仏の教えはすばらしいと思っていた人はいないと思います。はじめて念仏の教えに触れた人は、ほとんど例外なく「そんなものでどうなる」と、そっぽを向く。私たちは誰一人として、そのことにうなずけないのです。でも浄土真宗はそのこと一つです。浄土真宗から「ただ念仏すべし」を除いてしまったら何も残りません。(『親鸞の仏教と宗教弾圧―なぜ親鸞は『教行信証』を著したのか』藤場俊基著 明石書店)

これは石川県の藤場俊基先生の言葉です。


この「ただ念仏すべし」という言葉は、私たちも親しみ深い、『歎異抄』の二条を思います。

親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
(この親鸞においては「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと」よき人のお言葉をいただいて、信ずるほかに別のわけはございません。)

これは関東のご門徒が京都の親鸞聖人に、命懸けで会いに来た、教えを聞きに来た時に、おっしゃった言葉です。少し紹介しますと、

二 おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして(命懸けで)、たずねきたらしめたまう御こころざし(私のところにたずねてこられたのは)、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。(ただひとすじに往生極楽の道を問い聞くためです。なにをしに来たのかとは聞かない、往生極楽の道を問い聞くために来られたと言い切るんですね。)


しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり(しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、またそのための経文などを知っていると、心憎く思っておられるのは大変な誤りです。)


もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。
(もしそうなら、奈良や比叡山にも優れた学者たちがたくさんおいでになることですから、その人々にでもお会いになって、浄土に生まれるための要をくわしくお訪ねになるのがよいでしょう。)


親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。
(念仏は、本当に浄土に生まれる種なのか、また、地獄に落ちる業になるのか。総じてもって存知せざるなり。わからない。)

どうですかね、私たちが命懸けで聞きにいきたいことってあるでしょうか。
命懸けで念仏の教えを求めているか、そんなわけはないですね。それどころか、念仏がいらなくなっていませんか。私にとってはあってもなくてもいいものになっています。みなさんはどうでしょうか。
「これまでずっと大切にされてきたものだから、私も同じように大事にしたい」その気持ちは有難い、尊いものだと存じますが、「今、念仏がいらなくなっている」そのところに立ち返って、ではなにが大事にされてきたのか、念仏の何を守りぬいてきたのか、私たちはいよいよ聞いていかねばならない時をむかえているのかもしれません。(一回終える)質問を受け付けます。・・・


(質問がないので語りだす)○村も私がお講を担当しているのですが、いろんな質問をしてくださいます。
昨年は「追善」ではないんだ「追悼」なんだ、親鸞聖人は『歎異抄』五条に、「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。」とおっしゃった。亡くなった人の供養、先祖の供養の為に念仏を申したことはない、とおっしゃったのだという。お経をあげること、法要を勤めることが死者への善にならない、追善にならないわけです。そういうことで、今日は「追悼法会」ということで勤めさせていただきました。


浄土真宗の仏事は、昨年も申したかと思います、これは蓮如さんの言葉ですが、「讃嘆・談合にきわまれり」、讃嘆というのは、先ほどの「読経」と、今お話しています、「法話」です。浄土真宗法話は、讃嘆なんだ、お念仏の教えに出逢えた喜びを語る。そして、談合というのは、「示談と改悔」、示談というのはお念仏を教えをどう聞いているか、ご門徒同士が語り合う。だから法事の後にお斎があるんでしょうね。お酒があって、人が集うて話し合う、「読経」「法話」「示談」語り合うことを持って真宗の仏事・法事なんです。寺でお酒を読むなんてことは驚きなんだとある方に教えていただいた。私なんかは生まれた時からお寺で酒を飲むもんだと思っていた。なるほど、他宗ではそんなことがあるわけない、特に戒律を重んじるところでしたら、酒は当然戒められるものなんでしょうね。そういうことで、語り合うということがあって浄土真宗の仏事になる、法事になるんです。何か質問はございませんでしょうか。


本当は亡くなったことをご縁にしてご家族の方に語りかけるようなそんなお話が出来ればよいのですが、若輩者の私にはそれを語る術がなく申し訳ない限りです。
追悼法会 2008.1.16.