老人会法話「法義相続」

5年ぶりにその老人会から法話の依頼を受けた。調子よくないんだけど大丈夫かなぁ。原稿は仕上がった。先日友人の法話を聞いた。私も独り言ばっかりいうのはもうそろそろやめて、彼のように呼びかけなければならないのだけれど、踏み出せないなぁ。

久々恥をアップします。
「唯念仏して弥陀にたすけられまいらすべし(歎異抄)」これが結論ですね。でもみなさん、たすけられたいですか。そのすくいはなにか。すくいというのは、私を生きることができることがすくいだと聞いてきました。「そのままのおたすけ」「ほんでいいがや」子どものころから目に耳にしてきました。

浄土真宗とは― 字のごとく、浄土を真とすることを宗(中心)とする。浄土によって知らされる私たちの生きる穢土は三毒の世界。貪瞋痴(貪欲―貪り 瞋恚―怒り・うらむ 愚痴―おろかさ)の私の世界、私が照らされ、知らされる。浄土真宗のすくいは、現在ただ今の私が知らされること。

(歎異抄第一条)「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」、正信偈なら、極重の悪人、邪見(よこしまな考え方)驕慢(おごり)の悪衆生、一生悪を造る(れども)いっしょうぞうあく。「悪」私たちの先輩は、私のことでしたといただいてきた。お父さんお母さんおじいちゃんおばあちゃん、ご先祖から繋がれて私たちは今ここにいる。本当は、伝えていかんなん大事なお仕事もあるのですが、みなさんどうですか?

「悪の私」だから、阿弥陀仏に浄土に生まれたいと願いなさいと呼びかけられ、その声に応えて念仏することがすくいになる。この如来のよびかけを「回向」 ― 行はたらきだと聞いてきた。私が念仏申す前に呼びかけてくださっている。だから、その声が届いて念仏する時、すでにたすかっている。

念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。(歎異抄)

それは、知らされた悪い悲しみの私が私のままで許され、生きることができるのが救い。称名念仏するだけ、唯称えるだけで、いつでもどこでも誰でも、すくわれる。阿弥陀仏は、簡(えら)ばず、嫌(きら)わず、見捨てず すくう。どんな私も、私が見放してしまうほどの私でも、阿弥陀仏によって、如来の不思議な誓願・約束の力によって、これまでしたことが問われないで助かっていく事実がある。(佐野明弘さんの言葉) すくい。どんな私の存在もすでに許されている。


如来は私が念仏するのを、その時を待って呼びかけておられる。親鸞聖人もまた、私が念仏することを待っておられる。私たちはなかなか念仏できないけれど、待たれている身。そうであるかぎり、佐野明弘先生の言葉で言うと、私が「たすけてください」といえば、いつでもどこでも「たすけていただくことができる」人間の持っている最後の言葉は「たすけてください」その人間の苦悩のところに、お念仏の教えが届く。

じいちゃんが、本願に会うために生まれてきたんだと、本願に会えば、私は、尊い命をいただいていかされていることがわかるというのだけれども、私は長い間聞いてきたけれどもわかりませんでした。けれどもとても大事なことのように思ってきました。それを佐野さんが現代の言葉にしてくれた。「本願」は、「たすけてください」という、人間の苦悩のところに、届く。すくいを求める気持ちに、いつでもどこでも誰でも、私でもすくわれる。これが私の法義相続です。教えの要を伝え続けて行く。生き迷ったらどうか、思い出して下さい。