意訳に手を加える

からした仕事二つ。公民館行事グラウンドゴルフ大会の要綱印刷、そして、この資料。

十八 仏法のかたに、施入物(せにゅうもつ)の多少にしたがいて、大小仏になるべしということ。この条、不可説なり、不可説なり。比興(ひきょう)のことなり。

まず仏に大小の分量をさだめんことあるべからずそうろうや。かの安養(あんにょう)浄土(じょうど)の教主の御身量をとかれてそうろうも、
それは方便報身(ほうべんほうじん)のかたちなり。
法性のさとりをひらいて、長短方円のかたちにもあらず、青黄赤白黒(しょうおうしゃくびゃくこく)のいろをもはなれなば、なにをもってか大小をさだむべきや。

念仏もうすに化仏をみたてまつるということのそうろうなるこそ、「大念には大仏をみ、小念には小仏をみる」(大集経意)といえるが、もしこのことわりなんどにばし、ひきかけられそうろうやらん。かつはまた檀波羅蜜の行ともいいつべし。

いかにたからものを仏前にもなげ、師匠にもほどこすとも、信心かけなば、その詮なし。
一紙半銭も、仏法のかたにいれずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にてそうらわめ。すべて仏法にことよせて世間の欲心もあるゆえに、同朋をいいおどさるるにや。

仏事の謝礼にさしだす物の多い少ないによって、大きな仏になったり、小さな仏になったりする、というようなことを主張するものがいるとのことだが、これは言語道断で、また滑稽千万なことである。

まず、仏について大小の分量をさだめるはずもないではないか。(たしかに経典には、)彼の浄土の教主である阿弥陀如来のお姿に、大小などの在り方が説かれてはいるが、それは、本来、色も形もない真理そのものである法性のみ仏が真理に背いて生きる衆生を救うための方便(手立て)として、あえてそうした姿をとり、衆生救済のための本願を成就しようとなさっていることである。
だから法性の悟りを開くことにおいては、長短方円とか、青黄赤白黒というような形や色は考えようもないのだから、何を基準に大小など決めることができようか。

ただ念仏申す身になれば、その方便のおこころを知ることができるだけである。ある経典には、大声で念仏すれば大きな仏を見、小声で念仏すれば小さな仏を見る、ていうことが説かれているが、この経典の本意もわからないままに、こんなこともこじつけて主張しているのかもしれないが、もっての外である。あるいはまた、謝礼は布施行であるという説を誇張して言うているのかもしれない。

しかし、どんなに貴重な宝を仏前に投げ出し、また師匠に捧げようとも、信心が欠けておれば何にもならない。
また反対に紙一枚、銭半銭も仏法のために捧げなくても、他力の本願をたのむ信心さえ深ければ、それこそ、本願の思召しにかなうというものである。結局は仏法にかこつけて世間の財物を貪ろうという欲心があるから、こんな主張で同朋を言いおどしているのではないか。
参考:『歎異抄講話4 高倉会館法話集』(著者:廣瀬杲 発行:法蔵館)より

この条、珍しく、廣瀬先生との区切り方の感覚が違っていた。上記意訳は参加者皆で『歎異抄』を素読してから意訳を読む用に、少し手が加えられています。