義なきを義とす

念仏には無義をもって義とす。
歎異抄十条

一つ上の同級生が好きだった言葉。彼がなぜそんなにその言葉が気に入っていたのか、実はよく分からなかった。若くて、特に苦労もなくて、正義を立てることさえなかったのかもしれない。
だから「義なきを義とす」という言葉を私にうえつけたのは、やはりじいちゃんだと思う。「と信知せり」までがワンフレーズだった。お得意のスマホで、真宗聖典の中の言葉を検索したら、9件あった。(もちろんスマホでなくても見れます)
http://www.icho.gr.jp/seiten/
親鸞聖人は法然上人がおっしゃった言葉を大事にされていたようです。歎異抄では「念仏には」、聖人が書かれたお手紙である御消息では「他力」を「義なきを義とす」と書かれてている。やはり、前後を読むとわからなくなる。それは「念仏者は」ではなく、念仏には、であり、他力には、であるからなのだと思う。聞き方の問題なんだと思う。同級生のせいだとは言わないけれども、いつの間にか私の中で、「義なきを義とすという生き方」なんてのに歪曲している。

この阿弥陀如来往相回向の選択本願を、みたてまつるなり。これを難思議往生ともうす。これをこころえて、他力には義なきを義とすとしるべし。
『浄土三経往生文類』 親鸞聖人

難思議往生であるから、不可称不可説不可思議。