『絶対他力の大道』何をか修養の方法となす。08/02/10(1)

何をか修養の方法となす。曰く(いわく)、須(すべか)らく自己を省察すべし、大道を知見すべし。大道を知見せば、自己にあるものに不足を感ずることなかるべし。自己に在るものに不足を感ぜざれば、他にあるものを求めざるべし。他にあるものを求めざれば、他と争うことなかるべし。自己に充足して、求めず、争わず、天下、何れ(いずれ)のところにかこれより強勝なるものあらんや、何れのところにかこれより広大なるものあらんや。かくして始めて人界にありて、独立自由の大義を発揚し得べきなり。
かくのごとき自己は、外物他人のために傷害せらるるものに非ざるなり。障害せらるべしと憂慮するは、妄念妄想なり。妄念妄想はこれを除却(じょきゃく)せざるべからず。

清沢満之は苦手です。いわれていることがわからないのではなくて、共感できない。それは何なのだろうと思い続けてきた。一つはたぶん明治時代の言葉の感覚と私の受ける感じが違いすぎるからだと思う。それで今まで敬して遠ざけてきたが『絶対他力の大道』を素読する縁にあった。和田先生が「妄念妄想」とおっしゃったのは、この言葉が耳の底にあったんだろうか。


有名な『絶対他力の大道』は、清沢先生の信念が簡潔な言葉で披瀝(ひれき)されている。

自己とは他なし、絶対無限の妙用(みょうゆう)に乗託(じょうたく)して任運(にんうん)に、この現前の境遇に楽ざいせるもの、すなわちこれなり。・・・


生のみが我等にあらず。死もまた我等なり。我等は生死を並有するものなり。・・・


請う勿(なか)れ、求る勿れ、なんじ、何の不足かある。もし不足ありと思わば、これなんじの不信にあらずや。・・・

参考:『我、他力の救済を念ずるとき 清沢満史に学ぶ』(講述 大河内了悟 寺川俊昭 発行 東本願寺)

はじめのところばかり聞いたことがあったので、「妄念妄想」に驚いた。喰わず嫌いはいけないな。(続く)

我、他力の救済を念ずるとき―清沢満之に学ぶ (1980年) (同朋選書 4)

我、他力の救済を念ずるとき―清沢満之に学ぶ (1980年) (同朋選書 4)