『自らを侮り重んじるということ』 08/02/10(2)

楽しみにして聞法会へ行った。本来なら法話は讃題や三帰依文で始まるが、三帰依文の代わりに、且つ、お土産として以下の配布物をいただいた。

世の中の教えに「それ、人必ず自ら侮(あなど)りて、而(しこう)して後、人之を侮る」ということがある。
これは、人間たるものは自ら重んじなければならない、自ら貴ばなければならない、自ら軽んずるものは他人から軽んじざるをえない、自ら侮るものは他人から侮られざるをえない、ゆえに人に貴ばれ重んじたいとおもえば、自ら重んじ自ら貴ばなければならないというのである。


この教訓はなかなか結構な教えであって、ある程度まではある種の青年などには、大いなる導きになる教えである。しかし、この教訓はまだ宗教的趣旨を伝えていないようである。なぜかといえば、この教訓は自分だけにかかずらい、何でも自分がえらくおもわれたい、自分が貴ばれたいという自我的欲望を満足させる方法を教えるにすぎないからである。宗教の教えはそういうことではない。宗教の教えでは、そんな自分の価値など、どうでもよい、ただ自分をまるっきり如来の大用(たいゆう)にまかせて、平和に生活するのである。ゆえに宗教の門に入った人は、他人に侮られてはならぬから自ら侮らぬようにしなければならないとか、他人から貴ばれたいから自ら重んじなくてはならない、といったことには心を労しない。


ある点から言うと宗教の門に入ったものは、自分を非常に侮り、非常に軽んじるのである。進んでいえば、宗教の門に入ったものは、自分の価値をゼロ位におくのである。だから、軽んじるだの重んじるの、というどころではない。ほとんど自分の価値を認めないのである。一般に、われら人間が苦しんだり、悲しんだりするのは、つまりは自分というものを大事がっているからである。自分をないものにしたならば、苦しみも悲しみもないはずである。とうに自分をないものにしていたなら、人が侮ろうが、貴ぼうが、軽んじようが思んじようが、そんなことはいっこうに無関係である。重んじるものをして重んじせしめよ、軽んじるものをして軽んじせしめよというように、いっこうに何ごとにも平気で通れるのである。

『現代語訳 清沢満之語録 今村仁司〔編訳〕』

実はこの聞法会は、「組門徒会・推進員合同研修会」で、テーマは「宗祖としての親鸞に遇う」ということで、その内容が「同朋会運動」ということだったらしいが、少なくとも案内では伏せられていた。伏せられていて正解だと思う。なぜならその内容だったら、私は行かなかった、いや、講師の平野喜之さんに対して思いいれがあるから、行くことはあっても、楽しみにして行くことは無かったように思う。


お話が始まってしまえば「清沢満之」だろうが「同朋会運動」だろうが、話されることに対して、もう「まな板の上の鯉」状態で、(せっかく時間をつくって出て来たのがもったいないから、)真面目に聴く。ある意味聴聞の場に出る事のすごさだと思う。


いうまでもなく、今回平野師は、この清沢満之の言葉の(今村仁司氏の)現代語訳に添って話された。
そのはじめの言葉が「答えを先に言うと、同朋会運動の原点は、」だった。「うっ」と思ったのも束の間に、


私たちの日常の欲望は、おいしいものを食べたいとか、快適なところに住みたいということよりも、自我的欲望を満たすということ、他人から自分の価値を求められたいということにある。これは親鸞が一番悲しまれたあり方である。親鸞はこれを「雑行(ぞうぎょう)」と呼ばれた、こういう自分のあり方に痛みを持つ。
これが自分を苦しめているということが見えてくることが同朋会運動なのである。


と語られた。なるほど。(続く)