「同朋会運動」や「清沢満之」で萎える08/02/10(4)(完)

私は結論を最後に述べる事にする。


聞法会の後、預けていた娘を迎えに行く。家に帰るとお兄ちゃんに「どうした?話がつまらなかったのか?」といわれた。一体どんな顔をしていたのだろう、「いや、そういうことではないのだけど」と答えた。以来考え続けた、「同朋会運動」や「清沢満之」で萎えてしまうのはなぜか。

請う勿(なか)れ、求る勿れ、なんじ、何の不足かある。もし不足ありと思わば、これなんじの不信にあらずや。
絶対他力の大道』

同朋会館の部屋に「汝、何の不足かある。」と書かれた軸があった。ある日、続く言葉「これなんじの不信にあらずや。」を見て、がっかりした。あなた、信心が足りないのですよ、信じていないんですよ、と言われているよう。ええ、足りません。信じてないです。と言いたくなる。


「宗教が嫌い、とくに団体」というコミュニティが気に入っていて、そこで「宗教が嫌いな人」の声を聞いている。当然いろんな気付きがあるし、慢心をいい当てられることが度々ある。


清沢満之の言葉が響かないのは、清沢満之の言葉は言葉面だけを聴くと、宗教に関心がない、宗教が嫌いな人には気にもかけられることがない言葉だと思うから。でも私が話をしたいのは「私は無宗教だ」と言う人で、和田先生や佐野さんの言葉に泣いたのは、そこを越えていたからだと思っている。

(宗教心とは)特別な心ではないんです。人間であるならば、ちょっと真面目に考えたら誰でもが願わずにおれない確かな生き方への欲求、それを宗教心という。
「私は無宗教だ」という人がいます。それはたぶん、今流行っているあらゆる宗教を信じないと言うんでしょう。いわゆる既成宗教というものを全部信じない。それほどその人は痛切に本当の生き方を要求しておるのです。
『仏法と世法』講述 和田稠 発行 聞思舎

教団の中にしか通じない話には興味が持てない。「同朋会運動」なんてどうでもいいんだ。


でも本当は清沢満之とは時代が違うから表現が違うだけなのかもしれない。そして「同朋会運動」と名づけられたことがある。今回聞法会に行って、嫌いな「清沢満之」や「同朋会運動」のお話を聞かせていただいて、自分自身に変わった事がある。「立ち上がる」なんて大げさなものでもないけれど、喰わず嫌いはやめようと、萎えるのはしょうがないけど、聞いていこうと、これぞ平野喜之師の不思議なパワーなのかもしれない(笑)また行きます!