「死の不安」への手紙

「自分がいずれ必ず死んでしまうというこの不安」を書いている方におせっかいかと思いながら、書くのを何度もやめようと思いながらメッセージを送りました。長い時間をかけたのですが、ただの独り言になりそうだから少し淋しいのでここに貼ります。

同じく(?)親鸞聖人の教えを聞くものして、私の先生は「生死いずべき道」が「生の迷い」(生きていることの迷い)ではなく、「生死」であり、それは「死すべき者として」語られていることであり、現代は生の充実ばかりが求められ、「やがて死ぬもの」であることが忘れられたり、忘れるようにされていたりしている、とおっしゃっていたように思います。

とはいえ、自分にも死の不安がないわけではありません。加えて私は僧侶なので、80歳90歳という年輩の方と話す機会も少なくなく、年輩の方との感覚の違いも感じています。案外、死の不安というのは一つの目覚めかもしれません。

「死なない方法を獲得したのだけれど、焼き棄てた。(三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦「正信偈」)」とか、「教主釈尊は死んだ。」それから、そもそも「生老病死をみて世の非常をさとって出家して、修行して覚者の仏になった」のだから、死は仏教で解決しているはずなんです。

ところが「死にたくない」、という願いは身体的に叶わない。私が友人にそう訴えられたら、「なぜ死にたくないのか」 と聞くと思います。なにに怯えているのか、問題は死自体ではないと思っています。 自分がいずれ死ぬことは知っている私たちだから、怯えている理由がわかれば、自分が本当に大事にしているものが何なのか見えてくるのではないでしょうか。

無間地獄に堕ちないために一向専念無量寿仏して
「信心決定」せよ、

こんな言葉を現代の人が使っているとは驚きました。 私にとっては「往生要集(源信)」の世界であって、現代の人にとっては「そういわれた歴史があった」みたいな感覚でしかないと思っていました。死を真剣に怯える人には残酷な言葉だったんですね。○○会で聴いてきたことに違和感を感じている方は、仏教や親鸞自体に不信感を感じておられるのでしょうか。そうだとすれはとても残念です。本当に悲しい。