「偽」と言うは、すなわち六十二見、九十五種の邪道これなり。(―偽の仏弟子は成り立たない―)

仮の釈では「聖道の諸機、浄土定散の機なり」と「機」という語が使ってあるのに対して、偽の釈では「六十二見、九十五種の邪道これなり」と、「見」と「道」という語が使われている点です。
「機」とは、法がそこで成就する器、入れ物というような意味です。仏教では人間を指して、法器とか法のはたらく場という意味で機と言います。ところが偽の釈の「見・道」は、「見」は考え方ですとか思想・見解ですし、「道」は実践における道筋、すなわち方向性を表しています。それが「六十二見」とか「九十五種の邪道」ということです。ですから偽釈には衆生を意味する語は使われていないのです。
「真の仏弟子」に対して「仮の仏弟子」「偽の仏弟子」というようにセットにした言い方をなさる方が時々いらっしゃいますが、ここでの親鸞の語のおさえかたによれば、そういういい方は少し考え直す必要があるのではないか思います。仮は機ですから「仮の仏弟子」といういい方は問題ありません。・・・(略)
ところが親鸞は偽について「六十二見の機」とか「九十五種の邪機」といういい方をここではしていません。「偽なる見」「偽なる道」があるのであって、「偽なる機」「偽なる人」がどこかにいるという話ではないわけです。たしかに化身土巻の最初には、

しかるに濁世の群萠、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといえども、真なる者は、はなはだもって難く、実なる者は、はなはだもって希なり。偽なる者は、はなはだもって多く、虚なる者は、はなはだもって滋し。

とありますから、偽を人に当てはめる表現がまったくないというわけではありません。しかし、この場合でも、存在そのものが本質的に偽であるということではなく、「九十五種みな世を汚す」とありますように、六十二見・九十五種の邪道によって目を曇らされたものという意味です。だから人間そのものを指して「偽の機である」ということではないと思います。
(『親鸞教行信証を読み解く2―信巻―』藤場俊基著 明石書店より)

親鸞の教行信証を読み解く II信巻 (親鸞の教行信証を読み解く)

親鸞の教行信証を読み解く II信巻 (親鸞の教行信証を読み解く)

『読み解く』、藤場さんのライブが伝わるよう。って言うか、聞法会(ライブ)に行っているみたい。その丁寧さは、『教行信証』を読みたい人に是非勧めたい。

以前、藤場さんに教わったように「偽」の検索をしてみる。

また云わく、『大経』(涅槃経)の中に説かく、「道に九十六種あり。ただ仏の一道これ正道なり、その余の九十五種においてはみなこれ外道なり」と。朕、外道を捨ててもって如来に事う。もし公郷ありて、よくこの誓いに入らん者は、おのおの菩薩の心を発すべし。老子・周公・孔子等、これ如来の弟子として化をなすといえども、すでに邪なり。ただこれ世間の善なり、凡を隔てて聖と成ることあたわず。公郷・百官・侯王・宗室、宜しく偽を反し真に就き、邪を捨て正に入るべし。かるがゆえに経教『成実論』に説いて云わく、「もし外道に事えて心重く、仏法の心軽きはすなわちこれ邪見なり。もし心一等なる、これ無記にして善悪に当たらず。」仏に事えて心強くして、老子に心少なきは、すなわちこれ「清信」なり。「清信」と言うは、清はこれ表裏ともに浄く、垢穢惑累みな尽くす。「信」は、これ正を信じて邪ならざるがゆえに、「清信の仏弟子」と言う。その余、等しくみな邪見なり、清信と称することを得ざるなり。乃至 老子の邪風を捨てて、法の真教に入流せよとなり。已上抄出
(『教行信証』396「清信の仏弟子」)

「外道(九十五種の外道―偽)を捨ててもって如来に事う。」如来に事うということは、仏道を歩む、仏弟子になるということなら、「偽」は捨てる物。なるほど、なるほど、なるほど。ゆえに「偽の仏弟子」はありえない。