蓮如上人と北陸(聞書2-6)

同朋大会 太田浩史師講義メモ2-6
蓮如上人と北陸』・・・顕密体制との対決、蓮如上人によって北陸はどう変わったか。


惣村―鎮守のお宮さんを中心に宮座が組まれる。座衆。宮座の中心人物が大人(おとな)、年寄り、山伏。蓮如が北陸に来られたとき、勢力が強かった、平泉寺とよひら、白山、せきどう山、二つも総本山があり、山伏が寺をおさえていた。蓮如が来た1471年、当然鳴かず飛ばす。

資料(原文はカタカナです。傍線はありません)
蓮如上人つねづね仰せられ候。三人まず法義になしたきものがあると仰られ候。その三人とは坊主と年老と長と此三人さえ、在所々々にして仏法に本付き候はば余のすえずえの人皆法義になり仏法繁盛にてあらうするよと仰せられ候。
(太田 受得寺栄玄「栄玄聞書」『真宗資料集成』第二巻)
長は大人。

この当時、坊主と年寄りと大人と村単位で動いているから、トップ三人をおさえると、宮座がお講に変換するということ、顕密体制を村単位に。


この太田 受得寺栄玄というのはここのこと。400年前。その後、城端 善徳寺へ合併した。だから金沢に善徳寺の支坊がある。そして太田に東荒屋から栄照寺が入ってきた。福井に行った寺、残った・・・。「栄玄記」は『聞書』にたくさんある。朝倉を逃れてここ(この地に)に避難した。当時妙乗寺、日蓮宗が強かった。また時宗の拠点で、堅田時宗教団のトップが八田から輩出されたこともある。南無阿弥陀仏に慣れ親しんだ土地であった。越前からここに避難。

そもそも、年来超勝寺の門徒において、仏法の次第もって他相違せり。そのいわれは、まず座衆とてこれあり、いかにもその座上にありて、さかずきなんどまでもひとよりさきにのみ、(坊さんが酒を人より先に飲むということがありますが、そういうことでなく、宮座の上下関係のことを指している。)座中のひとにも、またそのほかたれたれにも、いみじくおもわれんずるが、まことに仏法の肝要たるように、心中にこころえおきたり。これさらに往生極楽のためにあらず、ただ世間の名聞ににたり。
(「御文」一帖目十二通『真宗聖典』p772)

宮座のこと。顔役。「平等」のお講なはずなのに、変わったはずなのに、「世間」になっている。真宗でなくて通仏教になっている、ということを言っている。

資料〔宮座〕若狭のおにゅうにあった資料
一、 組之儀も、往古より宮仲間内へ脇百姓より嫁婿取不申候。(宮仲間と脇百姓は結婚してはならない)惣而何事も宮仲間・脇百姓悉く相別り申し候。
(「文化九年十一月惣社大明神支配に付願書写」「熊野神社文書」『小浜市』諸家文書編四遠敷地区3-5)

宮座は縦社会。対して講は横社会。

資料〔小寄講〕安芸門徒
講中において上下の差別なく一味平等の同行なり。只年一つにてもこれ多き人を上座へ直し、御法義相続の咄の余りの儀は決して申すまじき事。
(「安政七年安芸高宮郡上原村 講中申定之事」)
咄―はなし

心の中では一つの平等社会、同朋社会。慈円の「宮」、法然親鸞の「講」が江戸時代にまだ同居。蓮如が北陸を変えた。

お講、語り合いが信心獲得の場。(大谷大学の)木村宣顕氏に聞いたところ、インド・中国・朝鮮半島、日本にも(他にそんな例は)ない。語り合いを仏事としたのは、本願寺派だけ。


(続く)3-6『女性による仏教イノベーション』・・・多屋内方とお講の誕生、真宗再興は女性がやった?