御正忌法話―前半御伝鈔上より

今日は御正忌ということで、昨日からまた呼んでいただいております。報恩講と同じようにお内陣の余間に親鸞聖人の御絵伝がかかっております。御絵伝の絵解きは聴かれたことがあるでしょうか、すでにご存知の方もおられると思いますが、今日ははじめに御絵伝のお話、御伝鈔の言葉に触れていきたいと思います。

御伝鈔は親鸞聖人が亡くなってから33年後の永仁三(1295)年孫に当る覚如上人が29歳の時に書かれています。のちのちの世まで親鸞聖人の教えを伝えて行かなければならないという、強い責任感や使命感があふれるもので、ゆえに私見が混ざっているともいえると聴いています。今日は全部をお話するのではなく、いいとこどりしようというか、自分が気になっているところをみていきたいと思っています。

それ、聖人の俗姓は藤原氏という言葉ではじまるのですが、耳に覚えのあることだと思います。
天児屋根尊二十一世の苗裔、大織冠 鎌子内大臣 の玄孫、近衛大将右大臣贈左大臣 従一位内麿公 号後長岡大臣、或号閑院大臣、贈正一位太政大臣房前公孫、大納言式部卿真楯息 六代の後胤、弼宰相有国卿五代の孫、皇太后宮大進有範の子なり。要するに孫覚如いわく「おじいちゃんは高貴な生まれだった」「日野有範の子」だったと書かれている。母は「吉光女」だと聞いています。

しかあれば朝廷に仕えて霜雪をも戴き、射山に趨って、栄花をも発くべかりし人なれども、
「霜雪をも戴き」天皇の側近にいること、「射山に趨って」上皇の御所に使える。朝廷に仕えていれば、高位に登り、栄華の夢をみることができたであろうに・・・(史学的には・・・)

興法の因うちに萌し、利生の縁ほかに催いしによりて、九歳の春の比、阿伯従三位範綱卿 干時、従四位上前若狭守、後白河上皇近臣、聖人養父 前大僧正 慈円、慈鎮和尚是也、法性寺殿御息、月輪殿長兄 の貴房へ相具したてまつりて、鬢髪を剃除したまいき。範宴少納言公と号す。
幼少の頃から願いがあり、更に厳しい境遇があって、9歳の春に前大僧正 慈円、慈鎮和尚(さきのだいそうじょうじえん、じちんかしょうこれなり)(百人一首にも出てくる仏教界の重鎮)のもとで(青蓮院とつたえきいています) 得度をした、鬢髪を剃除したまいき。落飾して出家者となった。

自爾以来、しばしば南岳天台の玄風をとぶらいて、ひろく三観仏乗の理を達し、とこしなえに楞厳横河の余流をたたえて、ふかく四教円融の義に明らかなり。それ以来、奈良や比叡山で広く仏教を学び、かたわらに「往生要集」を著した横川の源信僧都が歩まれた念仏の教えにも親しみ、博学だと知られるようになりました。

建仁第三の暦春のころ 聖人二十九歳 隠遁のこころざしにひかれて、源空聖人の吉水の禅房に尋ね参りたまいき。隠遁というのは世間をよくみるためにやることなんだそうです、法然上人のもとをたずねた。

是すなわち、世くだり人つたなくして、難行の小路まよいやすきによりて、易行の大道におもむかんとなり。真宗紹隆の大祖聖人、ことに宗の淵源をつくし、教の理致をきわめて、これをのべ給うに、たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、飽まで、凡夫直入の真心を決定し、ましましけり。世も末になり、人が卑劣に劣って我欲にまみれて、難行の小路聖道門とも言われる、小路、一部の人だけが歩むことができる。特別な能力を持った一部の人が特別な修行をする。易行の大道念仏の教えですね、私の母校の院長先生、竹中智秀先生は、「えらばず、きらわず、みすてず」「いつでも、どこでも、だれにでも」と念仏の教えを学生たちみんなに耳にたこが出来るくらい語りかけられた。とにかく、親鸞聖人はたちどころに「凡夫直入の真心を決定し」信心獲得されたという。うらやましいですね。私は迷ってばかり、念仏が救いにならなくて、信じられない、そういうことを法謗という、法である念仏の教えを謗る(そしる)「あれは信じられないものだといっている」ことになる。親鸞聖人は「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。(『教行信証』化身土末巻)」念仏の教えにあった。

さて次は有名な「女犯偈(にょぼんげ)」というところです。建仁三年 辛酉 四月五日夜寅時、聖人夢想の告ましましき。夢想・夢告といって、夢のお告げがあった。彼の『記』にいわく、六角堂の救世菩薩、顔容端厳の聖僧の形を示現して、白衲の袈裟を着服せしめ、広大の白蓮華に端坐して、善信に告命してのたまわく、「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」文。六角堂の救世菩薩がおごそかな顔立ちの高僧の姿で現れて、白の袈裟を着け、広大の白蓮華に坐られて、善信(親鸞)に告命してのたまわく(つげられた)、
「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」
行者宿報 設女犯 行者(道を求めるもの)よ 宿報の女犯を設ける。
なんなんでしょうね、「設もうける」というのだから、女犯の場を作るということなんでしょうかね、


(コメントをいただきました。ありがとうございます。
行者(ぎょうじゃ)、宿報(しゅくほう)に設(たと)い女犯(にょぼん)すとも、
我、玉女(ぎょくにょ)の身と成りて犯されん。一生の間・・・

という書き下しになり、「宿報」は「女犯」にかかる言葉のようです。)


次を見ます、
我成玉女身被犯 私は玉のような(美しい)女になってあなたに犯されよう
一生之間 能荘厳 (妻となって)一生の間あなたを荘厳し(活動をたすけ)
臨終 引導 生 極楽 いのち終わる時極楽に生まれることを引導(みちびく)
僧侶は女性と交わってはならないという戒があるが、女性と生活することになっても仏道から離れることではない、なぜなら「救世観音が美しい女の身になってあなたの妻となろう」と告げられたから、と言うことなんでしょうね。
(ほんとうにわかりませんのでとばします。今後も課題にします。)

救世菩薩、善信にのたまわく、「此は是我が誓願なり、善信この誓願の旨趣を宣説して、一切群生にきかしむべし」
これは私の誓願だからこの願いをみんなに伝えてください。
爾時、夢中にありながら、御堂の正面にして、東方をみれば峨峨たる岳山あり、その高山に数千万億の有情群集せりとみゆ。そのとき告命のごとく、此の文のこころを、かの山にあつまれる有情に対して、説ききかしめおわるとおぼえて、夢悟おわりぬと云々 お堂の正面に向かって東の方を見ると険しくそびえたつ山が並び、その高い山の上に、数千万億の人々が集まっているのが見えた。このときお告げのように、この誓願の意味をこの人たちに説き終わると夢が覚めた。
倩此の記録を披きて彼の夢想を案ずるに、ひとえに真宗繁昌の奇瑞、念仏弘興の表示なり。これって真宗繁昌・念仏弘興の兆し。♪
(略)
次はお弟子の釈蓮位というかたのこれまた夢想で、聖徳太子親鸞聖人を礼したてまつりましましてのたまわく、「敬礼大慈阿弥陀仏 為妙教流通来生者 五濁悪時悪世界中 決定即得無上覚也。」しかれば祖師聖人、弥陀如来の化現にてましますという事明らかなり。聖徳太子が、親鸞さまに向かって礼拝され、この迷い苦しむ人々が充ち充ちている、濁りきったこの世の中に、真実の教えの種をまき、目覚めた世界に人々を導かれる、生きた阿弥陀如来を拝ませていただきます、とおおせになりました。」この伝説の意味は、親鸞聖人の教えを受けた人々が、親鸞聖人こそ阿弥陀如来の化身に違いないとごく自然にうけとめたということの表れなのでしょう。たくさんの説話があったと思いますが、おじいちゃんを美化したい孫はこの話を大事に思ったということであると思っています。

さて、次は二副目、下から黒谷の法然上人の元でのお話になります。ざっといきます。法然上人は親鸞聖人をとてもかわいがってくれて、お弟子の中でも数人しか許可されなかった「選択本願念仏集」を書き写すことを許してくれたり、名号を書いてくれたりした。このことは『教行信証』にも親鸞聖人が感激を持って書いている。「仍抑悲喜之 涙註由来之縁」うれしくてうれしくて涙がでそうになるのをおさえてここに涙の由来を書きます。

次は有名な熊谷直実が遅刻してきたという信行両座と「如来よりたまわりたる信心」の信心諍論が続きます。
おおよそ源空聖人在生のいにしえ、他力往生のむねをひろめ給いしに、世あまねくこれにこぞり、人ことごとくこれに帰しき。法然上人がおられた時、たくさんの人々が念仏の教えに出遇っていた。

紫禁青宮の政を重くする砌にも、先ず黄金樹林の萼にこころをかけ、三槐九棘の道を正しくする家にも、直ちに四十八願の月をもてあそぶ。しかのみならず、戎狄の輩、黎民の類、これをあおぎ、これをとうとびずという事なし。貴賎、轅をめぐらし、門前、市をなす。常随昵近の緇徒そのかずあり、都て三百八十余人と云々 殿上にあって、まつりごとにいそしまれる尊い方々も、栄華を欲しいもままにしている由緒正しい大臣家にあっても、直ちに四十八願の念仏の教えに親しんだ。それのみならず、身分の上下に関わらず法然上人のもとにはたくさんの人が集まって、あたかも門前、市のようなりました。法然上人の側で教えを受けるものだけでも380人余りあったと伝えられています。

しかありといえども、親その化をうけ、懇にその誨を守る族、はなはだまれなり。わずかに五六輩にだにもたらず。しかしながら、法然上人に教えを受け、その心を正しく聞き開いた人は、ごくわずかで、わずか5・6人しかいなかった。

善信聖人或時申したまわく、「予、難行道を閣きて易行道に移り、聖道門を遁れて、浄土門に入りしより以来、芳命をこうぶるにあらずよりは、豈出離解脱の良因を蓄えんや、喜の中の悦、何事か之に如かん。しかあるに、同室の好を結びてともに一師の誨をあおぐともがら、これおおしといえども、真実に報土得生の信心を成じたらんこと、自他おなじくしりがたし。かるがゆえに、且は当来の親友たるほどをもしり、且は浮生の思出ともし侍らんがために、御弟子参集の砌にして、出言つこうまつりて、面々の意趣をも試みんとおもう所望あり」と云々 大師聖人のたまわく、「此の条尤然るべし、すなわち明日人々来臨のとき、おおせられいだすべし」と。ある時、同じ法然上人の教えをいただいているが、真実に「報土得生の信心」を成じているのか、自他おなじくしりがたし。私自身・皆さん共にどうであろうか、かるがゆえに、だから、誰がずっと親友であるか知るために、あるいは思い出に、御弟子参集して、提案したいと思います。
法然上人に「それはおもしろい」と許可をいただいた。

しかるに翌日集会のところに、聖人 親鸞 のたまわく、「今日は信不退・行不退の御座を、両方にわかたるべきなり。いずれの座につきたまうべしとも、おのおの示し給え」と。翌日の集会のときに、親鸞聖人が「今日は信不退・行不退にわかれましょう、どちらへ行かれるかそれぞれに申し出てください」と言った。
信不退 阿弥陀仏を信じて浄土に往生
行不退 南無阿弥陀仏を申すことによって浄土に往生
そのとき三百余人の門侶、みな其の意を得ざる気あり、その時300人あまりの人は尻込みするばかりだった。時に法印大和尚位聖覚、ならびに釈信空 法蓮上人 信不退の御座に着くべしと云々 その時、聖覚(『唯信鈔』)さんと信空さんが信不退の御座に着くべしと立ち上がった。

つぎに沙弥法力 熊谷直実入道 遅参して申して云わく、「善信御房御執筆何事ぞや」と。善信聖人のたまわく、「信不退・行不退の座をわけらるるなり」と。法力坊申して云わく、「しからば法力もるべからず、信不退の座にまいるべし」と云々 次に熊谷直実入道が(法務のために)遅参して申して云わく、「何事ですか」とたずねられたので、事情を説明すると、法力坊申して云わく、「しからば法力もるべからず、信不退の座にまいるべし」「阿弥陀さんに見捨てられては困るから信不退の座につきましょう」と言った。

よって、これをかきのせたまう。ここに数百人の門徒群居すといえども、さらに一言をのぶる人なし、是恐らくは、自力の迷心に拘りて、金剛の真信に昏きがいたすところか。人みな無音のあいだ執筆聖人自名をのせたまう、ややしばらくありて、大師聖人仰せられて云わく、「源空も信不退の座につらなり侍るべし」と、この時、門葉、あるいは屈敬の気をあらわし、あるいは欝悔の色をふくめり。他は一言も述べる方がいなかった。他力の信心がどういうことなのかよくわかっておられなかったからなのだろうか。人々が無言の間に親鸞聖人は信の座にご自分の名前を記された。しばらくして法然上人が「私も信不退の座につきましょう」と仰せになりました。この時ある者はだまって頭を下げ、あるいは後悔の色を隠せませんでした。

これ皆さん意味わかりますかね?先達がいろんなふうにいわれてきていると思いますが、三願転入という言葉がある。『大経』の18・19・20願。18願はいわずと知れた、(末代無知の御文で言えば)第十八の念仏往生の誓願、ところが他の二つ、19願も20願も念仏するんです。
19願は仏になりたいという菩提心を起こして、もろもろの功徳を修行して浄土を願う。
20願は我が名を称えよという呼びかけをいただいて、(徳本を植える)努力して浄土を願う。
18願は信も行も他力だと言われる。呼び声を聞いて喜んで、浄土を願う。どうですかね。

次に 聖人 親鸞 のたまわく、いにしえ我が本師聖人の御前に、聖信房、勢観房、念仏房已下の人々おおかりし時、はかりなき諍論をし侍る事ありき。法然上人のところに聖信房、勢観房、念仏房などおおぜいのお弟子たちが集まった時、議論がこじれて、なかな決着がつきませんでした。

そのゆえは「聖人 源空 の御信心と、善信が信心といささかもかわるところあるべからず、ただ一なり」と申したりしに、このひとびととがめていわく、「善信房の、聖人の御信心とわが信心とひとしと申さるる事いわれなし。いかでかひとしかるべき」と。
善信申して云わく、「などかひとしと申さざるべきや。そのゆえは、深智博覧にひとしからんとも申さばこそ、まことにおおけなくもあらめ、往生の信心にいたりては、一たび他力信心のことわりをうけ給わりしよりこのかた、まったくわたくしなし。しかれば、聖人の御信心も、他力よりたまわらせたまう、善信が信心も他力なり。かるがゆえにひとしくしてかわるところなし、と申すなり」なぜ等しいといえないでしょうか。なぜなら、深智博覧が等しいというのならまことに恐れ多いことです。しかし、往生の信心にいたっては、ひとたび他力の信心のことわりを承ったのですから、私心はないのです。ですから法然上人の信心も他力より賜らせ給う、善信が信心も他力なり。ですから、等しくかわりない、と申しました。
と、申し侍りしところに、大師聖人まさしく仰せられてのたまわく、「信心のかわると申すは、自力の信にとりての事なり。すなわち、智恵各別なるがゆえに、信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫、ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も、善信房の信心も、更にかわるべからず、ただひとつなり。わがかしこくて信ずるにあらず。信心のかわりおうておわしまさん人*730々は、わがまいらん浄土へはよもまいらせたまわじ。よくよくこころえらるべき事なり」と云々 ここに、めんめんしたをまき、くちをとじてやみにけり。すると法然上人が仰せられた、信心が違うと言うのは、自力の信についてならいえるでしょう。つまり、智恵が各別(それぞれ)ですから、信も各別です。他力の信心は、善悪の凡夫、ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も、善信房の信心も、変わることがありません。ただひとつなり。わが賢くて信ずるにあらず。信心の変わりがあると思っておられる方は、私が参ろうとしている浄土へは参ることがないでしょう。よくよくこころえらるべき事なり」と云々 ここに、集まっていた人はしたをまき、くちをつぐんだということです。

そういうことで、今日は上巻だけいただいたので、また来年にでも下巻に触れていくことも考えていますが、御伝鈔ばかりもなぁと思う。なぜなら私の家ではまず誰も聞いてくれない。大事なだんなは○○大学の真宗学科を卒業されていますが、このような学者さんは「私の見解とは違う」みたいな感じであんまり相手にしてもらえません。どうですかね、日頃の生活は親鸞聖人のご生涯がどうであったかというのはあんまり問題にならないですね。もっというと、テレサ・テンの生涯だとか、聖徳太子の生涯だとか、まあ誰でもいいんですが、誰もお一人のお一人には昨日の佐野さんの言葉ではないですが、『正信偈』「法蔵菩薩因位の時、 世自在王仏の所にましまして、諸仏の浄土の因、 国土人天の善悪を覩見して」法蔵は世自在王仏に二百一十億の世界を見せてもらう。二百一十億の世界の一人一人の生涯。その生涯は喜び・悲しみがあり、そしてどのようにいのちを終わっていったかを見た。どのいのちにも手をあわせねばならないような静けさがあった。
そういうことの一つにすぎないと思っています。
今「大乗の仏道」という「仏教学」の教科書を読んでいるんですが、そこに、お釈迦様が亡くなる時に「自灯明・法灯明」といわれた。自らを灯明(ともしび)とし、自らを所依(よりどころ)として、他人を所依(よりどころ)とせず、法(おしえ)を灯明(ともしび)とし、法を所依(よりどころ)として、他のものを所依(よりどころ)としてはならない。御伝鈔をみていると「僕のおじいちゃんすごいのよ」みたいなのを感じてあまのじゃくな私はちょっと嫌になる、ということがありこの言葉にかえっています。
(休憩)