真宗寺院が喪に服すということ

お友達のお寺の報恩講で、参り会の法中さんが「中陰中で」電話もなくご出仕いただけなかった。面倒なのでもっと簡単に言うと、友人の寺の報恩講で、「中陰中で」を公然の理由として電話もなしに参りに来ない真宗寺院の住職がいた。
いろいろ事情はあると思う。中陰中(亡くなってから四十九日の間)は、ぽつぽつ人も来るだろう。葬儀式の間、あわただしくてご門徒の月参りに行けなかったところがたまっているかもしれない。「声もでないし」とおっしゃった方がいたが、それはよくわからなかった。
その時ある方が「浄土真宗の教えでは死は自然なこと、当たり前のこと。家族が亡くなったといって、喪に服すという理由でお参りを断るというのはおかしい」とおっしゃった。
おかしいかどうかわからないし、父が死んだ時、月参りがどうなっていたか参り会がどうだったかなにもかも覚えがない。出産ということもあったが、それ以外は何も手につかなかった。
けれど、家族が亡くなって葬式を出すと、有縁の方にお世話になる。お参りに行って「当寺葬儀の際は大変お世話になりました。」といつもより気をつけて丁寧にお礼申すのが私流の喪に服すことのように思う。