承元の法難と現代(聞書1-6)

同朋大会 太田浩史師講義メモ1-6
承元の法難と現代・・・あの法難は800年前に終わったのでしょうか。美しい国と真実の国。


今でいう城端町から来ました。ここにお呼びいただいたことに因縁があるのでしょう(!?)

今年は親鸞聖人が流罪になって800年です。親鸞法然流罪のついでに流罪になった。承元元年1907年、浄土宗では熱心でないようですが(訂正、合同イベントがありました)、流罪800年ということで、流罪にあった、浄土真宗が開かれたということを問い直してみようということで、いろんな催しがあった。どうして起こったか、単に鈴虫・松虫という女官が法然の教えで出家した、宮中の想起問題にふれたということではないのでないと思っている。


流罪の背景に(驚かれるかもしれませんが)慈円大僧正がいる。この方は仏教会の最高峰である天台座主に四回もなった人。しかもお兄さんが九条兼実、摂関、法然に・・・・・・法然九条兼実に「誰にもわかりやすい念仏の教えを」請われて書いたのが『選択本願念仏集』、源平の戦いの藤原家の頂点に立った方。(親鸞は兼実の娘、たまひと結婚したのではないかという説がある。)


親鸞慈円のところで9歳で出家得度し、範念(はんねん)と名のる。慈円は慈鎮和尚(じちんかしょう)これは亡くなった方に天皇からおくられる諡号。なぜ親鸞慈円のもとを離れ、法然のお弟子になられたのか?


慈円親鸞に影響を与えているのは、「太子信仰」慈円は大事にしていた。本地垂迹説、権現思想で、観音思想から久世観音を太子に、太子を観音として祀る六角堂などですね、河内の磯長、六角堂、むどうじ、聖徳太子のゆかりあるところに参籠しています。


親鸞29歳、法然の庵にたずねる年、範念か綽空と名のっているとき、同じ時期に、親鸞慈円は夢告というか夢想、いずれもモチーフは「玉女」、玉というのは玉のように美しいということ。

資料 親鸞の夢想(資料に下線はありません)
建仁三年(1203)四月五日の夜寅時、親鸞(二十九歳)の夢想〕
行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽
(「御伝鈔」『真宗聖典』P725)

たとえ行者、行者は親鸞のこと、宿業にひかれて女性と共にしなければならないということがあっても、犯(犯行する)、従来は男性の僧は女性と暮らすことに「犯」、ところが二人の間が、仏法の真実に照らさせるなら、私は女性の姿で極楽に導きましょう。

資料 慈円の夢想(資料に下線はありません)
建仁三年(1203)六月二十一日の暁、慈円(四十九歳)の夢想〕
神璽は玉女なり。この玉女は皇后の躰なり。王自性清浄玉女の躰に入り、交り会わしめ給えば、能所共に無罪歟。この故に、神璽は清浄の玉なり。」
「比の剣璽は天下一所の成就なり。仏法王法を成就して国を理め民を利する、王者の宝物なり。内侍所又神鏡と云う、此の両種の中より生まれ給わしむる天子なり。是れ則ち天照大神の御躰なり。是れ則ち大日如来なり。大日如来、利生の為、一字金輪の形を現し給う。この金輪は金界、王は金輪王を以って本と為す。之に依って、仏界に此の義を借りて。此の身を現じ給うなり。凡そ真言に事相を本と為し、利生の道を顕す。是は皆世間の義を顕す用なり。また世間の国王の即位とて高御倉に付かしめ給い、儀式には、即ち此の大日所変の金輪王の義をまねびたまいて、智挙印を結ばしめ給うとは云い伝えるなり。是れ即ち金剛界大日、本より垂迹利生なり。」
(「慈鎮和尚夢想記」赤松俊秀著『鎌倉仏教の研究』平楽寺書店)

三種の神器のことを言っている、神璽は「まがたま」剣璽「つるぎ」神鏡「やたの鏡、しんきょう」。皇后は皇后陛下。金輪王(こんりんおう)仏教では理想の政治をした金輪浄王。


この時代は、天皇がロボットで、摂関が政治をし、武士に武力があった。邪馬台国は、後に、犬猿が英雄になったという言い伝えがあった。慈円は、後鳥羽上皇から十数台で終わると思っていた。天皇大日如来になって国をおさめねばならない。○○○に裸の聖徳太子が祀られ、天皇が即位をしたら服を着せる。聖徳太子を転輪浄王としている、慈円が見える。この国を治めている霊力・・・


(対して)親鸞は太子を「在家仏人」在家者、在家にありながら、仏教を体得。親鸞は無常観にもとづく出家、父母に別れ、・・・慈鎮は違う、「法性寺殿の系統は怨霊からたたられている」怨霊から逃げるというもの。出家の動機は生涯を左右することがある。


慈鎮は、顕教密教全てがいきわたったときに政治ができる。日本中の貴族の荘園を地頭に奪われないようにするには、神社・お寺に寄進すれば、地頭は寺に手を出すとばちがあたることを恐れて手が出せない。そして神社をたて、鎮守、それを山伏が祈祷していく。仏教神道が持つ呪術的な力でもって治めていく。


最奥・斎宮葵祭り・・・天皇の娘たちは占いで当った人が神に使える。男性に交わらない、仏教に交わらない。破れば国にたたりが起こる。それを堂々とぶち破ったのが法然、後白川法王のかもの斎宮の屋敷に入って一週間念仏を教えを・・・その方が、式子内親王、偲ぶ恋を詠むのが上手いので有名、実は相手が法然だったとも。法然は堂々と語られ、恋愛関係にもなった。鈴虫・松虫はきっかけでしかなく、背後に慈鎮。承元の法難の他に嘉禄の法難もある。親鸞が尊敬していた隆寛律師(補足:一念多念分別事など 親鸞聖人は『一念多念文意』を書かれています )が法難で命を落としている。後に、専修念仏融合、実は一緒だから仲良く、これは専修念仏が骨抜きにされている。


これは親鸞が書いたものでしょう、(それを蓮如が書き残す)

浄円房備後国、澄西禅光房伯耆国好覚房伊豆国、行空法本房佐渡国、幸西成覚房・善恵房二人、同遠流にさだまる。しかるに無動寺之善題大僧正、これを申しあずかると云々
『歎異抄』裏書

「善題大僧正」というのは慈円、「これを申しあずかる」流罪になさらずに申し預かる、これは保護するというのでない、改心させられる。これでできたのが浄土宗の西山派。やがてぶつかるのが弁念、慈円より派遣された山伏「明法坊これなり」呪術に縛られないのが(浄土真宗の)教えだから・・・ (補足:山伏弁念は親鸞聖人を殺しに来たのに、改心し親鸞聖人を師として明法坊になります)


この問題はずっと続き、実は蓮如で決着した。

(続く)2-6『蓮如上人と北陸』・・・顕密体制との対決、蓮如上人によって北陸はどう変わったか。

◆訂正
「承元の法難」から今年で800年。事件で流罪になった法然と弟子・親鸞の教えをくむ浄土系4宗派(浄土宗、西山派、浄土真宗本願寺派、真宗大谷派)の僧侶らが法難の今日的意味を問い直す「念仏法難800年を考えるつどい」を開く。
ということで、合同のイベントがあったようです。