法話4自死・自殺研修会に参加して

(過去の原稿とかぶっています)

讃題 十三 弥陀の本願不思議におわしませばとて、悪をおそれざるは、また、本願ぼこりとて、往生かなうべからずということ。この条、本願をうたがう、善悪の宿業をこころえざるなり。よきこころのおこるも、宿善のもよおすゆえなり。悪事のおもわれせらるるも、悪業のはからうゆえなり。故聖人のおおせには、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき。また、あるとき「唯円房はわがいうことをば信ずるか」と、おおせのそうらいしあいだ、「さんそうろう」と、もうしそうらいしかば、「さらば、いわんことたがうまじきか」と、かさねておおせのそうらいしあいだ、つつしんで領状もうしてそうらいしかば、「たとえば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、おおせそうらいしとき、「おおせにてはそうらえども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしとも、おぼえずそうろう」と、もうしてそうらいしかば、「さてはいかに親鸞がいうことをたがうまじきとはいうぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」と、おおせのそうらいし(中略)「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とこそ、聖人はおおせそうらいし


皆さんようこそお参りくださいました。今日の讃題は歎異抄十三章、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」こういうことから、今日はいよいよ自死自殺研修会で学んだことを聞いてもらおうと思ってきました。


さて、その前に最近も桜の頃になって、寒の戻りといわれて今年はどうなっとるのかなぁと思っておりましたが、ようやく春らしくなって来ましたね。みなさんの周りに風邪をひいている方はおいでませんか、暖かかったり、急に寒くなったりしていますね。今年は、長患いしていた方、病院を出たり入ったりという方がとうとう亡くなったということが、昨年より多かったように思います。気候変動が激しいせいではないかなぁと、そういうことを、僧侶同士で話していました。二月からずっと葬式や七日参りに追われておりまして、四月一日にようやく全部の四十九日の法要を終えました。

(中略)
さて、一番話したかったことは、これは伝えることが出来た、「なんや知らんけど熱心やった」おじいちゃんおばあちゃんが大事にしていた、そして当たり前のように家にお内仏があるけれど、どんなふうにいいのか、なぜ一生懸命になっていたのかわからなくなっています。それは一体どういうことだと思いますか。という呼びかけ。そして今からいよいよ話したかったのに話せなかったことを聞いていただきたい、本山の「自死・自殺研修会」に行ってですね、どうしてもきいていただきたいことをまとめてきました。
実を言うと、研修会に参加して、長い間、二週間ぐらいふさいでいました。お通夜の時にはまだまとめることができなかったということがありました。問題が重いですからね。反芻して反芻して今の自分の気持ちをお話します。ですから、答えではないです。


まず、「自死遺族に対する諸問題について」のお話でした。私たち僧侶は亡くなった時にすぐ連絡を受けます。その時に、僧侶の無知によって遺族を苦しめる、そういうことがある、これを二次災害といいます。僧侶がいのちの尊さを安易にといてそのことが遺族の人達を追いつめる。「自らいのちを絶つことはいのちに対する冒涜だ」とわかった者として説く事によって追いつめる。ということがあるそうです。ひどいねぇ、私はそんなこと言うたことはないけれど、そんなこというとる坊主がおったら、「ああ、だらやな」と思うてください。


そしてこれもまた常識的な良心で、これは皆さんにも思い当たることがあるのではないかと思います。相手を楽にしてあげたいという思いで「いつまでもメソメソしていたらなくなった人がうかばれないから」とか「もう一人いる子どもを亡くなった子の分まで大事にしてあげよう」というのは、なんとかしてあげたい、相手の気持ちが楽になってほしいと声をかける、そうでないですかね。ところがですね、実はそれは、ずっと寄り添うということで、付き合うことが嫌、相手が楽にならないと自分が辛い、はじめから本気で付き合うのが嫌、ということ。なんだと。自死遺族の問題を取り上げ人間に帰っていく、それこそ、「人間といういのちの相すがた」というテーマで、人間を見つめた親鸞聖人に遇う、そういう願いのもと、研修会が開かれたわけです。


まず NPO法人 自殺対策支援センター ライフリンク 代表 清水康之(しみずやすゆき) さんに講義をいただきました。この方はNHKのドキュメンタリーを作っていて、(ディレクター)親を亡くした子どもたちを取材した。零細企業 リストラ 過重労働による過労自殺。謝りながら亡くなる、ダメな親、ダメな部下、本当は悪いことをしたわけではなく、むしろ責任感が強い人が多い。あるいは小さな商店、負債をかかえ、自殺して下りた生命保険で返す、借金をね。「この人たちは本当に死ななければならなかったのか」情報、制度があれば回避できたかもしれない。」取材しそう強く思った。


2001年この年、自殺者が年間三万人を超えた。なかなか自殺対策が進まないというときに「なんかやろう」と声をあげたのが子どもたち(20代の学生)、それから、この清水さんが代表になって運動してきた。そして昨年2006年「自殺対策連絡協議会」が新設された。これはなんと国家予算で、『自殺予防対策の推進』という項目で9億円計上されたんです。すごいですよね、尊いことです。一人の優秀な若いNHKのディレクターがここまでの運動をした。こんな話をあちこちしていたら、(3/10)もテレビで見ました。現在ただいま活動している。


WHOでは自殺は「避けられる死」と位置づける、必然的な要因はない、社会的な要因が関わっているから。という。しかし、日本の通概念は「自殺する人は勝手に死んでいった」というが、遺族と関わると、いろいろなことがわかってきた。一つはどういうふうに自殺に追いつめられていったか、死にたくて死んでいったのではない、生きていけないところまで追いつめられて、亡くなって行ったのだと思う様になった。


清水さんがいうには、「死にたい」と思っている人に「いのちは大切だ」といってもほとんど意味がない、どうやったらその死から逃れられるか、生きていく手段を具体的に教えて欲しいのであって、大切ないのちをどう守るかが、わからないから生きていくこと出来ないんだと。だから、死にたいと声をあげるのは「生きたい」情報を提供すれば選んでいける。まず医療的に解決する方法がある、医者・病院ですね。そして、「死にたい」という社会問題であれば解決策を提示すればクリアできる。借金の問題であれば、具体的に弁護士に相談する。「クレサラ被害者団体」との繋がりもある。安心して助けを求めることが出来る。借金は、弁護士、ボランティア団体などにより100%クリアできる。負債を抱えてそれを理由に死ななくてもいいんだ。

私は今まで、田舎ばかりで話してきました。ここはうちらから見たら都会です、しっとるひとのしっとるひとのしっとるひとがこまっとる、そういうことがあったら、是非私の寺に電話を下さい。一人一人の力で、一人でも多くのいのちをなんとかたすけたいと思います。(休憩)


また自死遺族には「わかちあい場」を開いている。あしなが育英会という運動があり、交通遺児やガンなど病気で親を亡くした子どもたちの支援の会、しかし、自殺で親を失った子ども達は発言することがない。誰にも打ち明けることが出来ない。自死遺族の気持ちは、「悲しみ、自責の念、怒り、罪悪感」など複雑に整理されないままであることが多い。急に失う悲しみ。そして、「私がもう少し早く気付けば」という「自責の念」。うつ状態は一緒にいるものが気がつかないということがある。それから「怒り」、大切ないのちを自分で放棄した、よくないことをした家族、そんなふうに見られるのが辛い。親が自殺した子どもと見られるのが怖い。自分が辛い思いをするのは自らいのちを絶ったお父さんのせいだ、自殺は「弱い人がするもの」「自分も弱い人間だと思われたくない」父さんは負けたから死んだ、負けてはいけないんだ。「自殺したのではないか」と、見つかるのが怖い、と怯えて過ごしている。社会に対する不安から語ることができない。そして「罪悪感」、亡くなる数日前、いつになく優しかった父、自分がとった行動を悔やんでいる。父が死んだのは僕のせいなのか、自分が優しく接して話を聞いていてあげれていたら踏みとどまってくれたか。私が殺した。(ビデオを見て泣いてしまいました。)そんなふうに一人ひとり辛い体験をしても腹におさめ過去にしている。


人間には回復していく力がある。物語(ものがた)っていくことで紡ぎなおす。
これまで誰にも打ち明けることが出来ないかった遺族が、「同じ苦しみを抱える人と共に語る場によって、少しずつ自分の体験と向き合い、同じ体験をした仲間たちとともに、乗り越えるでなく向き合う、歩みを進めていく。人間のたくましさを回復していく、そして増え続ける自死遺族に「自死遺族シンポジウム」を開催し、「自分と同じ苦しみを味わうことの無い様に」立ち上がっていった。どうしたら抱え込んで、亡くなって行く人を減らすことが出来るか、自分がもらった勇気で語り合う、みんなを受け止めよう、遺児たちを支える輪を広げていきたいという運動をされている。


そして、それぞれが持っている回復力いかに発揮できる環境を作ってあげられるか、物語ることによって紡ぎなおす遺族への三つのレベルが紹介された。
?個のレベル ?わかちあいの場 グループのレベル 同じ体験をしたもの同士 そういう場がどうしたら作っていけるか
?地域で社会で
遺族の人たち自ら回復していく、地域でわかちあいの場を作る。
どうやったら安心して悲しんで悩んでいけるか、どうしたらそういう社会に出来るか、一緒に考えていきたい、自殺の問題と向き合える、それが生き心地のいい社会になっていく、ということなんだ。安心して亡くなった人を思い悲しみ涙を流す。一緒に考えていけたら。ということでした。私もこれからどんどん関わっていこうと思っています。


さて帰って次の日に月忌参りへ行き、研修会で勉強した、昨年2006年に国家予算に「自殺予防対策費」9億円が計上されたなどについて話していた。負債をかかえて「生きたいのに」死ぬことを余儀なくされることはこのシステムによって救済されるはずである。「でも・・・」と門徒のおばあちゃんが言った。「○○さんところのあの子が死んだのは負債とかが理由ではなかったのよ」「そうやよね、私もそこを聞きかたった、何かのせいに出来ない死、だからね、排除されたような気持ちになりました。


自死は選ぶものではなく、追い込まれるものであること。どうしようもない状態に追い込まれて選択肢が一つずつ消えていき、最後は自死というところまで追い込まれる。その人が弱いから自死するのではない、決して自死は個人の問題ではないということ。「死にたい」ではなく「死ぬしかない」という死。と語られた。


確かに決して自死は「個人の問題ではない」かもしれません。人は繋がりを生きるのだから。でも社会や周りのせいに出来ない自死ってあると思いませんか。大切な人が何人か、自死し、話すことが出来なくなってしまいました。研修会では、「本人が弱いからでなく、選んだのでなく追い込まれ「死ぬしかない」という決断を余儀なくされた死、同じ悲しみを繰り返さないための運動のエネルギーにまでなる社会の問題」には、そうではない「自死・自殺」が排除されている、そう感じて辛かった。本人がうつ病などの病でなく、社会や周りのせいではない理由があれば、だれがどう楽になるのか、遺族が自分を責めるということくらいしか思いつきません。


私たちはこのまま自死したことを受け入れられず「選んだ」ものと出来ずに、憎み悲しみ続けていて、本当にいいのか、と思います。自死を選んだことをだれのためになんのために憎み続けなければならないのか、死を選んだことを受け入れようと努力してもいいのではないかと思っています。もちろん自死・自殺を肯定しているわけではありません。「死にたい」という人がおる、何とか留まってほしい、生きて欲しいと思う。でも親鸞聖人は「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」それが人間だとおっしゃった。どうですかね。


残された私たちは、残されたことできっと出逢っていくと思います。「すくわれる」という言葉がきかれました、「自死したことのお陰で」と思えることが出来たら「すくわれる」ことがあるのかもしれない。でも私は思う、それは「続かない。」相続せず、という表現がぴったりする。昨日も申しましたが、「こんでやっていける」ものにしがみついていけるほど、私たちは強くない、迷いが深いんです。


出逢い続ける、日々生きる、浄土真宗は身近な人の死を通して出逢うことが多い、500年もの昔から、毎日朝夕のお勤め(お参り)が勧められ、ひっきりなしに法座がある、それは「相続しない私であるから、出逢い続け、日々生きる」ということを大切にしたのではないかな、と思いました。


次の日の研修会で小児科医で大谷派の僧侶でもある、梶原敬一氏が話された。
子どもの死は親の死よりつらいと聞くことがあります。子どもをなくしてかわいそうやと、ところが先生がいうには、「かわいそうだというのは第三者、かわいそうだと泣いてはいけない、泣いたら嘘になる、人の死はめでたいこととして送っていく、生きるという仕事を終えた」とこういうことをおっしゃる、そして「どんな死に方でも。」と言い切られた。


世間の中で考えると、若くしてなくなったいのち、90歳で亡くなったいのち。ところが長さではない、生まれてきた、生きた、死んだ、人生の中では一緒なんだと。いのちあるものの死は必然。大切な人が亡くなったとき、「残された家族は(その人を)どう失っていくか」ということがあります。聞きなれない表現だとは思います。亡くなった人をどうとらえるかというより、無くなった後にどのような関係を持つか、というたらどうでしょうか。


ある、子どもを亡くした親は「悲しみをのりこえるのが私たちのつとめ」というが、そうでもない。一周忌、三回忌、七回忌、十回忌、二十五回忌、五十回忌、悲しみは時間と共に増すものということもあります。私たち浄土真宗門徒は亡くなった人を縁として法要を続けてまいったということがあります、それは死者と残されたもののであい続ける場を開くという願いが先達(昔の人)よりこめられている。死を縁としてどうか南無阿弥陀仏の教えにおうてくれよと、こういうことなんです。仏教、真宗は死者と共に生きる道が伝えられてきた。葬儀、亡くなった人の追悼・追弔。亡くなった人を縁にして法要を重ねながら、悲しみを乗り越えるのではなくて、死者との時間をどれだけ共有できるか。そういうことでございます。


私も父を亡くしまして、時間がたって、悲しみが癒えたか、というとやはりそうでもないです。「悲しみを乗り越えるのではなくて、死者との時間をどれだけ共有できるか。」そういう言葉におうて、ああそうだったなぁと、今私たちは亡くなった人との時間を永代祠堂経法会ということで、共有しています。亡くなった方を縁としてここにお念仏の教えにおうているんです。ほやね。


今日の讃題は歎異抄十三章、

十三 弥陀の本願不思議におわしませばとて、悪をおそれざるは、また、本願ぼこりとて、往生かなうべからずということ。この条、本願をうたがう、善悪の宿業をこころえざるなり。


弥陀の本願が不思議におわします、といって、悪を恐れないのは、「本願ぼこり」といって、往生できないぞ!というのは、本願を疑っているんだ、善悪の宿業ということを、わかっとらんのだ、(唯円坊が嘆いた)

よきこころのおこるも、宿善のもよおすゆえなり。悪事のおもわれせらるるも、悪業のはからうゆえなり。故聖人のおおせには、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき。


善い心がおこるがも宿善がもよおすからであり、悪い事しようと思うがも悪業が計らうからであ。親鸞聖人は「兎の毛、羊の毛の先にひっついとるごみくらいの罪も、宿業ではないということは一つもない」とおっしゃった。


また、あるとき「唯円房はわがいうことをば信ずるか」と、おおせのそうらいしあいだ、「さんそうろう」と、もうしそうらいしかば、「さらば、いわんことたがうまじきか」と、かさねておおせのそうらいしあいだ、つつしんで領状もうしてそうらいしかば、「たとえば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、おおせそうらいしとき、「おおせにてはそうらえども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしとも、おぼえずそうろう」と、もうしてそうらいしかば、「さてはいかに親鸞がいうことをたがうまじきとはいうぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」と、おおせのそうらいし(中略)
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とこそ、聖人はおおせそうらいし。

そういうことをお伝えしまして、終わります。