自死・自殺研修会に参加して⑥研修会参加者コメントを受けて

rpitaka 『先日の研修会では久々にお会いできてうれしかったです。
ところで、今回の研修会を通して私があらためて感じたことは、自死は選ぶものではなく、追い込まれるものであること。どうしようもない状態に追い込まれて選択肢が一つずつ消えていき、最後は自死というところまで追い込まれる。その人が弱いから自死するのではない、決して自死は個人の問題ではないということ。「死にたい」ではなく「死ぬしかない」という死。そこでいのちの尊厳を安易に説くことは、時には残された人たちにとっては暴力のように感じるかもしれないのではと思いました。』
nappa2914 『rpitakaさん、早速コメントありがとうございます☆私はまだ「世間」とか「出世間」とかで思考回路がショートしてしまって、何を聞いてきたのかもまとめられずにいます。

>自死は選ぶものではなく、追い込まれるものであること。どうしようもない状態に追い込まれて選択肢が一つずつ消えていき、最後は自死というところまで追い込まれる。その人が弱いから自死するのではない、決して自死は個人の問題ではないということ。「死にたい」ではなく「死ぬしかない」という死。

そうですね、そう私も聞きました。そしてうなだれました。別の表現で言うと、違和感をおぼえた。もっとはっきりいうと、そんな人だけではないと思う。
確かに、決して自死は個人の問題ではない、と思います。人はつながりを生きるのだから。
でも社会や周りのせいに出来ない自死ってあると思いませんか。本人が弱いからでなく、追い込まれ「死ぬしかない」という決断を余儀なくされた死、同じ悲しみを繰り返さないための運動のエネルギーにまでなる社会の問題には、そうではない「自死・自殺」が排除されている、その遺族の傷は深くなるでしょう、「ああ、ここでもだめだった」と。

そして本人がうつ病などの病でなく、社会や周りのせいではない理由があれば、だれがどう楽になるのか、遺族が自分を責めるということくらいしか思いつきません。

大切な人が何人か、自死を選び、話すことが出来なくなってしまいました。
自死を選んだということを憎み続けていて、本当にいいのか、と思います。
「選んだ」という言葉を「追い込まれた」にしたときに、周りにいた自分を責めます。
追い込んだものとして生きることが出来ないから、選んだことにしたいのでしょうか。
自死を選んだことをだれのためになんのために憎み続けなければならないのか、
死を選んだことを受け入れようと努力してもいいのではないかと思っています。

もちろん努力であって、死に別れた悲しみは癒える事はなく癒えてなくなるのはもっと悲しい。あの人らしいとか、楽になったとか、私はこころで思う日があります。

まだ、まとまりません。

>そこでいのちの尊厳を安易に説くことは、時には残された人たちにとっては暴力のように感じるかもしれないのではと思いました。

自死遺族に「いのちの尊厳」や「自殺は大罪」と言うことができる方って、ものすごいよ、私には言えないし、(思っていないので)言わない、目の前で言われたら泣いて逆らいます。

日本では自殺を語ることについて、「朝からそんな(暗い)話をするな」ということがあるといわれていました。テレビでは楽しいことや笑顔がたくさん映されています。時には「そんなことまで笑わなければいけないものか」とうんざりすることもあります。でもやはり何時でも自殺のことを考えるのは疎ましいと思うことに気付き、日本人体質にどっぷりつかっているのだなと知らされました。またこれからも書いていこうと思います。』