祠堂経法話「自死・自殺研修会に行って」07.03.14. 前半

さて、今日は昨日お約束いたしました、自死・自殺研修会に行ってですね、どうしてもきいていただきたいことをまとめてきました。まず、「自死遺族に対する諸問題について」のお話でした。私たち僧侶は亡くなった時にすぐ連絡を受けます。その時に、僧侶の無知によって遺族を苦しめる、そういうことがある、これを二次災害といいます。僧侶がいのちの尊さを安易にといてそのことが遺族の人達を追いつめる。「自らいのちを絶つことはいのちに対する冒涜だ」とわかった者として説く事によって追いつめる。ということがあるそうです。

そしてこれもまた常識的な良心で、相手を楽にしてあげたいという思いで「いつまでもメソメソしていたらなくなった人がうかばれないから」とか「もう一人いる子どもを亡くなった子の分まで大事にしてあげよう」というのは、なんとかしてあげたい、相手の気持ちが楽になってほしいと声をかける、そうでないですかね。ところがですね、実はそれは、ずっと寄り添うということで、付き合うことが嫌、相手が楽にならないと自分が辛い、はじめから本気で付き合うのが嫌、ということ。なんだと。自死遺族の問題を取り上げ人間に帰っていく、「人間といういのちの相すがた」というテーマで、人間を見つめた親鸞聖人に遇う、そういう願いのもと、研修会が開かれたわけです。

まず NPO法人 自殺対策支援センター ライフリンク 代表 清水康之(しみずやすゆき) さんに講義をいただきました。この方はNHKのドキュメンタリーを作っていて、(ディレクター)親を亡くした子どもたちを取材した。零細企業 リストラ 過重労働による過労自殺。謝りながら亡くなる、ダメな親、ダメな部下、本当は悪いことをしたわけではなく、むしろ責任感が強い人が多い。あるいは小さな商店、負債をかかえ、自殺して下りた生命保険で返す、借金をね。
「この人たちは本当に死ななければならなかったのか」情報、制度があれば回避できたかもしれない。」そう強く思った。

2001年この年、自殺者が年間三万人を超えた。なかなか自殺対策が進まないというときに「なんかやろう」と声をあげたのが子どもたち(20代の学生)、それから、この清水さんが代表になって運動してきた。そして昨年2006年「自殺対策連絡協議会」が新設された。これはなんと国家予算で、『自殺予防対策の推進』という項目で9億円計上されたんです。すごいですよね、尊いことです。一人の優秀な若いNHKのディレクターがここまでの運動をした。最近(3/10)もテレビで見ました。

WHOでは自殺は「避けられる死」と位置づける、必然的な要因はない、社会的な要因が関わっているから。という。しかし、日本の通概念は「自殺する人は勝手に死んでいった」というが、遺族と関わると、いろいろなことがわかってきた。一つはどういうふうに自殺に追いつめられていったか、死にたくて死んでいったのではない、生きていけないところまで追いつめられて、亡くなって行ったのだと思う様になった。

清水さんがいうには、「死にたい」と思っている人に「いのちは大切だ」といってもほとんど意味がない、どうやったらその死から逃れられるか、生きていく手段を具体的に教えて欲しいのであって、大切ないのちをどう守るかが、わからないから生きていくこと出来ないんだと。
だから、死にたいと声をあげるのは「生きたい」情報を提供すれば選んでいける。まず医療的に解決する方法がある、医者・病院ですね。そして、「死にたい」という社会問題であれば解決策を提示すればクリアできる。借金の問題であれば、具体的に弁護士に相談する。「クレサラ被害者団体」との繋がりもある。安心して助けを求めることが出来る。借金は、弁護士、ボランティア団体などにより100%クリアできる。負債を抱えてそれを理由に死ななくてもいいんだ。

また自死遺族には「わかちあい場」を開いている。あしなが育英会という運動があり、交通遺児やガンなど病気で親を亡くした子どもたちの支援の会、しかし、自殺で親を失った子ども達は発言することがない。誰にも打ち明けることが出来ない。自死遺族の気持ちは、「悲しみ、自責の念、怒り、罪悪感」など複雑に整理されないままであることが多い。急に失う悲しみ。そして、「私がもう少し早く気付けば」という「自責の念」。うつ状態は一緒にいるものが気がつかないということがある。それから「怒り」、大切ないのちを自分で放棄した、よくないことをした家族、そんなふうに見られるのが辛い。親が自殺した子どもと見られるのが怖い。自分が辛い思いをするのは自らいのちを絶ったお父さんのせいだ、自殺は「弱い人がするもの」「自分も弱い人間だと思われたくない」父さんは負けたから死んだ、負けてはいけないんだ。「自殺したのではないか」と、見つかるのが怖い、と怯えて過ごしている。社会に対する不安から語ることができない。そして「罪悪感」、亡くなる数日前、いつになく優しかった父、自分がとった行動を悔やんでいる。父が死んだのは僕のせいなのか、自分が優しく接して話を聞いていてあげれていたら踏みとどまってくれたか。私が殺した。そんなふうに一人ひとり辛い体験をしても腹におさめ過去にしている。