『生死』②07.2.21.前半

ある方がくれた。こんな紙をいっぱいね、こんなことが書いたありました。
高校くらいから、どう生きてよいやらわからなくなってしまった。非常に迷っておったが、どういう縁か仏法を聞こう、それで自分の迷いを解決したいと。中学の時に修学旅行でみた仏像がずっと頭の中にあった。


それで迷って迷いが高じて、何の用もないのに京都に流れてきてね、それでしばらくじーっとしておった。牛乳の配達をしたりしてね。なかなか道がはっきりせんもんですから、鴨川を歩いていた、鴨川の下にはダンボールにくるまっておる人がおった。金沢では少ないですけれどもね、京都は今では大勢おいでます。まだその頃は少なかった、何かその仲間に入れてもらおうかなって思っておった。だけどもう一つ、やはり自分の悩みをもう少し直接につかみとって解決したい、という思いがあって、思想とかそういうことを学ぼうと思うようになった。だんだん元気が出たんでしょうね。そういう気持ちになったことで、お寺で下宿させてもらう、そのお寺は禅宗のお寺でした。


真宗親鸞聖人の教えを聞いていこうか、禅宗で行こうか、迷った。禅宗は座禅に行っているから、これでいい、では真宗の方はねと、それで本を買って来て読んだ。大経というのが真実のお経で、そこに阿弥陀の本願が説かれている。これを真実の経として仰ぐのが真宗だと言うので、大経を訳してあるのを買って来て読んだ。


ところが、(静岡出身の方なんですが、)20歳になるまで人が念仏をするのを聞いたことがなかった。周りにお寺もお参りもないから、お坊さんを見たのはおばあちゃんの亡くなった時一回きり、お話一つしないで帰っていったということです。


それで話を戻して、大経を読んでみたらですね、昔々法蔵という方がおられて、世自在王仏に遇うて非常に感激して、・・・(正信偈はじめ)法蔵菩薩がすばらしい仏さんにあったご縁で自分の中に願いが起こってきた、そしてその願いを自分の言葉で表現するのに五劫(ごこう、時間の単位、長い時間)の時がかかった。そしていよいよそのときが来てね、世自在王仏に「さあみんなにおまえの願いを述べなさい」と、そこから法蔵は48願をずうーっと説いていかれる。


それを読んでああそうか、さてこの法蔵という人はところでいつの時代の人やろうなぁと思った。皆さん知っていますか?お釈迦さんはだいたい2500年前にインドに生まれた方ですね。法蔵はいつの人や?はてなぁと思って、調べた。そうしたら、そんな人はおらなんだ。ちょっとびっくりしましてね。ってことはこの法蔵の話も阿弥陀仏というのも架空の話かなと思った。ご存知でしたか?そういうとみなさん怒るか知らんけれどね。これは私にはこれを信じなさいというのはほとんど「ウルトラマン」を信じろというのと、あまり変わらんなと思いましてね。これは無理かもしれない。一切理論を捨ててこの話を信じろといわれても、そんなに自分はめでたい人間ではなさそうや。これはちょっと難しいなと。


それに対して座禅の方はわかりやすい。効果もでる。その方は7年禅宗の坊さんをします。修行が厳しくて(からだの弱い人です。)4回気絶した。やっぱり食べないし寝ないし、絶対長袖なんか着させてもらえない。薄着で布団は一枚を半分に折って寝る。一人畳一枚にみんな一緒に寝る。まあそれをやってはじめはもう死んでも良いと思った。このまま他のものの命をとって訳もなく暮らしているよりは、こうやって道を求めていってこのまま死んでもよいと思った。


実際に「雲水」というのは行く前ににちゃんと自分が道場で死んでも絶対に文句を言いません、と書いて頼んでいく。こうやってなんやらかけておられるんですが、そこの裏側に、封筒に一万円入れてある。「何でですか?」と和尚さんに聞いたら、「お前の死体の処分代や」といわれて「はい、わかりました。」と。


それでもだんだんね、お腹がすいたとか痛いとか我慢をしたら悟りが開けるなんて思えなくなって、他の道場へいこうと、先生によって指導が違うそうです。そうしたら先輩が、「お前にこの本をやる」といってくれたのが『真宗聖典』でした。そして下宿を借りて『真宗聖典』を読み始めた。真宗を学ぼうと思った。禅宗を辞めるつもりはなかったけれど、大分疲れていたということもある、どんな修行もいらない、っていったらね、なにか急にほーっとしてしまって、これで助けてもらえるやろうかって思ったんですよね。


そんなことが書かれてあった。また後で続きをお話しするつもりです。どうですかね、昭和46年生まれの私はこんなに真剣に道を求めたこともないしね、生きるということの悲しみもなかったんですよ。なに不自由なく育ってきた。なんか情けなくてね、なんて中途半端なんだって、嘆いたらね、「それぞれの業のところで聞くんです」とおっしゃった。これをしたらえらいとか、尊いということではなくて、それぞれの業、背負って来たもの、遇うたこと、そういうところできくんですと。そういわれたことを思い出していました。


さて、今日は昨日お約束いたしました、自死・自殺研修会に行ってですね、どうしてもきいていただきたいことをまとめてきたんです。まずですね、今回は主にポストベンション(遺族に対する諸問題)についてのお話だったんです。私たち僧侶は亡くなった時にすぐ連絡を受けます。その時に、無知によって遺族を苦しめる、これを二次災害といいます。僧侶がいのちの尊さを安易にといてそのことが遺族の人達を追いつめることがある。「自らいのちを絶つことはいのちに対する冒涜だ」とわかった者として説く事によって追いつめる。ということがあるそうです。


そしてこれもまた常識的な良心で、相手を楽にしてあげたいという思いで「いつまでもメソメソしていたらなくなった人がうかばれないから」とか「もう一人いる子どもを亡くなった子の分まで大事にしてあげよう」というのは、なんとかしてあげたい、相手の気持ちが楽になってほしいと声をかける、そしてこれは皆さんにも身に覚えがあると思います、そうでないですかね。ところがですね、実はそれは、ずっと寄り添うということで、付き合うことが嫌、相手が楽にならないと自分が辛い、はじめから本気で付き合うのが嫌、ということ。なんだと。ほっぺたをたたかれた気がしました。「自死遺族の問題を取り上げ人間に帰っていく」そういう願いのもと、研修会が開かれたわけです。


まず NPO法人 自殺対策支援センター ライフリンク 代表 清水康之 さんに講義をいただきました。この方はNHKのドキュメンタリーを作っていて、(ディレクター)親を亡くした子どもたちを取材した。零細企業 リストラ 過重労働による過労自殺。謝りながら亡くなる、ダメな親、ダメな部下、本当は悪いことをしたわけではなく、むしろ責任感が強い人が多い。あるいは小さな商店、負債をかかえ、自殺して下りた生命保険で返す、借金をね。「この人たちは本当に死ななければならなかったのか」情報、制度があれば回避できたかもしれない。」そう強く思った。


WHOでは自殺は「避けられる死」と位置づける、必然的な要因はない、社会的な要因が関わっているから。という。しかし、日本の通概念は「自殺する人は勝手に死んでいった」、遺族と関わると、いろいろなことがわかってくる、一つはどういうふうに自殺に追いつめられていったか、死にたくて死んでいったのではない、生きていけないところまで追いつめられて、亡くなって行ったのだと。


2001年この年、自殺者が年間三万人を超えた。なかなか自殺対策が進まないというときに、「なんかやろう」と声をあげたのが子どもたち、20代の学生たちだった。それから、この人が代表になって運動して、昨年2006年「自殺対策連絡協議会」が新設された。これは国家予算で、『自殺予防対策の推進』という項目で9億円計上されたんです。すごいですよね、尊いことです。一人の優秀な若いNHKのディレクターがここまでの運動をした。


清水さんがいうには、「死にたい」と思っている人に「いのちは大切だ」といってもほとんど意味がない、どうやったらその死から逃れられるか、生きていく手段を具体的に教えて欲しい、大切ないのちをどう守るかが、わからないから生きていくこと出来ないんだと。死にたいと声をあげるのは「生きたい」情報を提供すれば選んでいける。死にたいという言葉にじっくり耳を据える。「死にたい」ということについては医療的に解決する方法もある。「死にたい」という社会問題は解決策を提示すればクリアできる。借金の問題であれば、具体的に弁護士に相談する。クレサラ被害者団体との繋がりもある。安心して助けを求めることが出来る。借金は、弁護士、ボランティア団体などにより100%クリアできる。


また自死遺族には「わかちあい場」を開いている。あしなが育英会という運動があり、交通遺児やガンなど病気で親を亡くした子どもたちの支援の会、しかし、自殺で親を失った子ども達は発言することがない。誰にも打ち明けることが出来ない。大切ないのちを自分で放棄した、よくないことをした家族、そんなふうに見られるのが辛い。親が自殺した子どもと見られるのが怖かった。「自殺したのではないか」と、見つかるのが怖い、おびえて過ごしている。社会に対する不安から語ることができない。
自死遺族の気持ちは、複雑に(悲しみ怒り自責の念)整理されないまま。「もう少し早く気付けば、」という「自責の念」、うつ状態は一緒にいるものが気がつかないということがある。それから「怒り」、自分が辛い思いをするのは自らいのちを絶ったお父さんのせい。自殺は「弱い人がするもの」「自分も弱い人間だと思われたくない」父さんは負けたから死んだ、負けてはいけないんだ、そして「罪悪感」、亡くなる数日前、いつになく優しかった父、自分がとった行動を悔やんでいる。父が死んだのは僕のせいなのか、自分が優しく接して話を聞いていてあげれていたら踏みとどまってくれたか。


一人ひとり辛い体験をしても腹におさめ過去にしている。人間には回復していく力がある。物語(ものがた)っていくことで紡ぎなおす。ところが自死遺族はその回復力を社会から足を引っ張られる。弱いやつだと社会から物語を勝手に押し付けられる。どうやったら安心して悲しんで悩んでいけるか、どうしたらそういう社会に出来るか、一緒に考えていきたい、自殺の問題と向き合える、それが生き心地のいい社会になっていく、ということ。


遺族の声を聞くことで、外に打ち明けることで楽になることはいっぱいある、体験を話して仲間に出会って、どうやって変わって行ったか、胸のうちを語る、罪悪感、怒り、それらを吐露することによって、「自殺した父うけいれていきたい」最初は向き合えなかった自殺に向き合って、外に向かって一歩二歩、変わることないかもしれないけれども、少しでも笑顔 先の自分を見つける術(すべ)を求める。話せなきゃいけない、話せない自分はダメなのでなく、話したくなったときに話せる場があることの大切さ。


誰にも打ち明けることが出来ない、親が自殺した子どもと見られるのが怖かった、同じ体験をした人に勇気をもらった。そして立ち上がっていく、増え続ける自死遺族に「自死遺族シンポジウム」を開催し、どうしたら抱え込んで、亡くなって行く人を減らすことが出来るか、自分がもらった勇気で語り合う、みんなを受け止めよう、遺児たちを支える輪を広げていきたいという運動。


少しずつ自分の体験と向き合い、同じ体験をした仲間たちとともに、乗り越えるでなく向き合う、歩みを進めていく、人間のたくましさを回復していく、それぞれが持っている回復力いかに発揮できる環境を作ってあげられるか、物語ることによって紡ぎなおす遺族への三つのレベルが紹介された。①「個のレベル」②「グループのレベル」わかちあいの場、同じ体験をしたもの同士、そういう場がどうしたら作っていけるか③「地域で社会で」遺族の人たち自ら回復していく、地域でわかちあいの場を作る。安心して亡くなった人を思い悲しみ涙を流す。一緒に考えていけたら。(休憩)