「永代祠堂経」とはなにか

祠堂経法話07.3.19.
さて、今日はまず、住職さんに課題をいただきました、永代祠堂経とは何か、ということをお話します。祠堂経でお話しすることがありますので、祠堂経とは何かということを以前はお話することが多かったけれど、毎回呼ばれるので、そういうこともあまり話さなくなっていたので、「はて、どんなことを言おうか」とまず、「真宗辞典」をくることにした。

永代読経の意にて、団信徒の布施を受け、寺院においてその死者の命日には永代まで読経することをいう。(中略)多くの寺院は毎年期日を定めて永代経なる読経を主とする法会を行う。他宗にてはこの永代経は多くの死者のための追善追福のためであるが、真宗にありてはすべて報恩のためとす。

祠堂の祠は「まつる」、ようするに、「お堂に永代にまつり、読経を主とする法会にあう」現代ではうちでは五日していますが、三日しているところ、一日のところ、いろいろあることを聞きます、能登の方は本来、一ヶ月しておった、それにうちのじいちゃんが話に行っていたとご門徒さんから聞いたことがあります。


これに関して、今からちょっと難しい話をします。展開がありますから、どうか最後まで聞いてください。(おこって途中で帰った人もいた。)
月忌参りに行っているおうちに真如苑の信者が二軒あります。わけあって近年檀家になった。(本当は檀家とは言わない、門徒なんだけどもね)私はお参りに行くのがすごく嫌だった。何でわかるかというと、お内仏のご本尊が「釈迦涅槃像の写真」で半分隠れてます(脇掛は厳如上人筆)。経卓の横に「真如苑」と書かれた肩衣らしきがたたんでおいてあり、おつとめの本もあります。教祖様ご夫妻の絵像とお子様姉弟の絵像もつらーっと並んでいてね。イヤーになります。人の信仰をどうこうしようと思っていない、他に大切な宗教あるならどうして私が月参りをする必要があるんだとね。


以前、お参りに行くとき(だけ)は絵像をどけて欲しいことを母屋のじいちゃんに伝えたのだけど、なんも変わっていない、私からいわないとだめなのだろうか、傷つけあうのが目に見える。ポリシーの為に親鸞聖人の言葉を武器にして戦うのは嫌だ、そんなもん正義でもなんでもない。そんなふうに自問自答していたわけです。


しばらくして真如苑信者の方が光明寺に「死んだお父さんの祠堂をあげたい」とおっしゃて、「こりゃ今いいにいかなならん」と思って話をしにいった。
真如苑に入っておられますね」教えと教えでこちらが正しいと争いたくないこと、近くの寺も新興宗教が多いこと、うちは新興宗教は最近檀家になった二軒、なるときに確認してお話しするべきことだったが、当寺は住職等の怠慢により、門徒総代さんだって「念仏とは何か、浄土真宗とは何か、親鸞の教えとは何か」はっきりしている方がうかばない、その信心に生きておられるかどうか怪しい。私もその中の一人。どうやって伝えていくべきか日々悩んでいるというのに、他の信者をかまっている暇がないんです。それから私が離婚をしたときに友人が真如苑の勧誘に来た、その時の苦い思い。


それから、以前、村で追悼会があったときにお話した、「唯念仏して弥陀にたすけられまいらすべし(歎異抄)」「唯は、ただこのことひとつという。ふたつならぶことをきらうことばなり。また「唯」は、ひとりというこころなり。(唯信鈔文意)」ということを私は奥さんに聞いて欲しくてお話しました。真如苑の信じているものと浄土真宗の信心は違う、「唯(ただ)念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」といって、唯というのは、阿弥陀さんも真如苑の教祖様もというのとは違う。真如苑の信者を光明寺に永代に祠堂するわけにいかんから。出来れば遠慮して欲しい。


そして浄土真宗は死者の供養のためのお経をあげません。祠堂をあげてもお布施しても死んだ人のためにはならない、ご利益がないと何度もお伝えしました。「真如苑だからですか」とおっしゃるから、「いいえ、真如苑でも門徒でも私も変わりません。」と答えました。
そして、なぜ真如苑の信者が光明寺に祠堂をあげられるのか、聞きました。「当たり前だと思っているから、」だという、おじじもおばばも皆そうしていたと。利益があるとかないとか考えたこともなかったと。真如苑は勤めた会社の勧めだった、そうおっしゃった。
「今日私がお話をさせていただいたことで、祠堂をもう一度お考えになりませんか、もちろん考えて、やっぱりあげたい、とおっしゃるなら、いつでも対応します。」

「でもやっぱり・・・」とおっしゃる、「わかりました。日を空けております、させていただきます。それでは、お参りになる方は、お一人でしたね、時間は10時、金額を教えていただいていいですか、記念品等の準備があります。」とたずねた私に、「20万です」とこたえた。「大変やったやろうね、」ますます辛くなる。「真如苑やったらそんなにたくさんあげたら、なんかみかえりもあるかもしれん、ところが浄土真宗にはありません、『ありがたい玉』やら『ありがたい壷』みたいなものはないんです、祠堂をもう一度お考えになりませんか、・・・」そういった、
そうしたら、「お父さんの祠堂をあげようと思って一生懸命集めたお金です。」年金で過ごしておられるであろう奥さんが目頭の汗か涙かわからない光ったものをテッシュでふいた。

「では月忌参りにいったときだけでも『釈迦涅槃像の写真入りフォトフレーム』をどけてください、本尊は本当に大切なこと、真宗門徒の要です。」とお伝えし、この辺に置けばいいですね、と『・・・フォトフレーム』の置き場を一緒に決めた。


そういうことがありまして、このことをあるお寺でお話しました。「浄土真宗のすくいと真如苑のすくいは違う」「真如苑の信じているものと浄土真宗の信心は違う、「唯(ただ)念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」といって、唯というのは、阿弥陀さんも真如苑の教祖様もというのとは違う・・・。」では浄土真宗のすくいというのはなにか、そういう話をした。そうしたら話した私も聞いた人もなんだか悲しい場になった。


その日の帰りにスーパーに寄ったらなんと偶然に数年ぶりに私が離婚したときに勧誘に来た真如苑の信者の同級生に会った。衣を着ている私に「なっちゃん、がっばってるね、先日、ひさのお葬式の時にも来ていたね」と声をかけくれた。私は「そうねん、疲れたわ」と言ってしまった。きちんと挨拶すればいいものをド本音がでてしまった。


その夜、すごく落ち込んでいるときに、祠堂経に呼んでくれたご住職からメールをもらった。私はこのメールを泣きながら読んだ。そして、次の日、前日の悲しい話を泣きながら詫びて、このメールを紹介した。泣いて謝ったのでなくて読んで紹介していたら涙で声が震えた。すくわれるとはこういうこと、頭が下がるということなんですね、と皆さんに言って皆でうなずいた。


永代祠堂経〓 他宗においては先祖、故人への供養に財施をし、本堂に戒名、法名の位牌を祠(まつ)り、代々にわたりお経を読む。お経が故人への呪文になっている。真宗(私のお寺)では、祠堂の財施は、聞法道場である本堂でつかう仏具、経本、ご和讃、修復等本堂を維持し、諸行事を執行するに必要な 荘厳のための財施(布施)と とらえ、読経は 故人に対するものではなく、故人を 縁としてお経に会う。如来の声を聞く。永代とはお念仏の相続。祠堂とは本堂での我が身の居場所。(聞法の中に我が身の居場所をいただくということなんだ)
経会とは如来のねがいである お経にふれる「聞会」(聞く会)との意味。
永代祠堂経は、故人への呪文でも救いのためでも、生きている人の救いのためでもない。そうなら 如来とのかけひきに すぎない。本堂とは自分の計らいの心がことごとく打ち砕かれていく座である。


余談後日談ですが、この真如苑の信者の二軒はいまだにうちの檀家で、そのお話をしたときに、「真如苑とお寺が違うなんて知らなかった」そういうことをおっしゃっていました。もう月忌参りに行っても二軒ともご本尊が隠れることもないし、真如苑の教祖様たちの絵像が並べられることも無くなりました。

私のほうも、先日祠堂をいただいたので、中尊前の前卓を松野仏壇店さんにいうて、いいがにしてもらおうと思っています。(休憩)