法話⑤法義相続(後半)

永代祠堂経法話⑤07.4.10.(過去の原稿とかぶります)
さてですね、父が突然亡くなって、僧侶の仕事をあちこちせんなんようになった。報恩講は、うちらでは20カ寺のお寺さんがおいでるから、参り会というて私も20カ寺行っている。それからお葬式に呼ばれる、セレモニーホールでやることもある、公民館でやることも多い。老人センターでは毎年追悼法要があって報恩講がある、はたと気付いた。「なんて浄土真宗のお内仏の多いことだろう」私らの公民館にはたいがいお内仏がある、セレモニーホールにもあるところがある。老人センターにまである、これは一体どういうことだろう、とびっくりしました。「真宗門徒の家が多いからあたりまえだ」と思いますか?これらは本来「公」のものです。それがあたりまえになるほど、これを「土徳どとく」というのですが、先達からお念仏の教えに会う機会をずっといただいて今まで来ているんです。そしてこれまた当たり前のように家にお内仏がある、おじいちゃんおばあちゃんが「なんや知らんけど熱心やった」大事にしていた。けれど、どんなふうにいいのか、なぜ一生懸命になっていたのか全体的にわからなくなっています。自分は僧侶だから、「なんや知らんけど熱心やった」で、納得していっていいはずがない、お布施もらっているんですから、私のところでははっきりせんなん、どうやって伝えていこう、そう思っていました。昨日はお通夜にそんな話をしたことを聴いていただいておりました。


ところがね、そうでもないと思いました。実はそのとうちゃんは、昨日お話していた、おばあちゃんがたいへん熱心な真宗門徒やった。その母親が亡くなって、「骨収めに本山へ行きたいから、どうやいね、みんなで奉仕団へ行かんかね」と言ってくれた。奉仕団というのは本山に同朋会館という研修施設がありまして、一泊二日、あるいは二泊三日、共に聴聞し座談などの語り合いの場が開かれる、朝夕お勤めをして全国のご門徒と出会う、おばあちゃんもよく奉仕団へ行っていた、うちのじいちゃんばあちゃんの元気なときは毎年この春の彼岸の時期に奉仕団へ行っていました。(ここからは私の憶測なんですけれども)その背中を黙ってみとって、死に別れ、どうですかね、母親の求めていた道というか、熱心に求めとった念仏の教えをわしもちょっとこれから聞いていこうかなと、そういうことだと思うんです。私が鼻息荒くして伝えることではないのだ、皆さんがここにこうして足を運んでくださる、これが他でもない、「法義相続」、念仏の教えを伝えていくことになる、そうでないですかね。


先ほど申しました、妙好人の西山のおばあちゃんも、どうですかね、この「法義相続」のお仕事をがっちりしていかれた。お念仏の教えを聞き、生活し、「鬼のようだった」というた息子が僧侶になる。


「法義相続」ということで、もう一つお伝えせねばならないことがあります。いま本山は今ご修復の真っ最中で完成は2011年、真宗本廟東本願寺の御影堂は世界最大の木造建築物であります。木造でないのはたくさんあるんですよ、ローマなんかに行ったらごろごろにあります。木造なんですね、高さ38m・正面76m・側面58m(図)・畳数927枚・瓦数175967枚・堂内の柱90本、まあ、一言で言えば大きいということですね。こんなことをお伝えしているんですよ、今御修復していますから今度の瓦は何枚になるんでしょうね。大きいお堂に大きな屋根、この瓦と瓦の間のどろの重みで柱が曲がったり裂けたり恐ろしいことになっていた。そこで最近の技術でこの瓦の間の重たい重たい土を無くしてうまいこととめる、などそういう工事をしています。


みなさんは「ラフカディオハーン」という名をご存知ですか、日本名は「小泉八雲」、「怪談」「黒猫」などというおどろおどろしい物語をはじめとする書物、私のおばあちゃんは、時代劇と、なんか知らんけど、横溝正史とか怪盗ルパンとかおどろおどろしいのが好きで、小さいころからよく目にしたものです。そしてラフカディオハーンというのですから、外人さんですね、その方は大変日本を愛し、日本語で書かれたわけですね。おばあちゃんが好きだから私も関心をもって本を見るわけです。その日本好きのラフカディオハーンが、明治28年に両堂が完成した、その落慶式に行ってね、その時の日記がこの「日本の心」という書物の中に書かれています。


四月二十一日京都にて
 日本全国の宗教的建築の中でも最も壮大な例といえる二つの建物が最近完成した。これで寺の町京都には、古都一千年の歴史を振り返っても恐らく右に出るもののない建造物が二つ新たに加わったのである。その一つは政府が贈ったもの、もう一つは庶民の力によるものである。
 政府が造営したのは大極殿といい、京都を都に定めた第五十一代(ママ)桓武天皇の大祭りを記念して建てられた。(中略・平安神宮のこと)
 一方、庶民が京都の都に贈ったのは、さらに壮大な建物、すなわち真宗の荘厳な寺である東本願寺である。完成までに十七年の歳月と八百万ドルの費用を費やしたと述べれば、西洋の読者にもその威容がいくらか想像できるのではなかろうか。単に面積のみを比較するなら、これほど費用のかからない日本の建物にももっと広いものがある。だが、日本の寺院建築に通じた人であれば、高さ百二十七フィート、奥行き百九十二フィート、間口二百フィート以上もある寺を建てるのがどんなに難しいか、容易に理解できる。
(中略)
落慶式を見るために十万人を越す農民が集まった。彼らが大勢で広大な中庭に敷き詰められた筵(むしろ・ござみたいなもの)に座って待っているのを
中断・たくさんでお堂にすわれなくて白州にござ敷いて座っておられたんやね、
私は午後三時頃に見たが、そこはまるで人の海であった。しかも、式の始まる午後七時まで、この大群衆は影一つない日なたで飲食物も口にせずにひたすら待つのである。庭の一角に見慣れぬ白い帽子と白い服をつけた二十人ほどの若い女性の一団が見えたので、
中断・なにかわかりましたか、「看護婦さん」そうですね、
近くの人に聞いたら、教えてくれたと、これだけたくさんの人が何時間も待つから具合の悪くなる人もいる、看護婦さんがああして待機している、担架もそれを運ぶ人手の用意もありますし、お医者さんも大勢控えておられますよ

 人々の信仰心と忍耐力は大したものだと私は感服した。もっとも農民たちがこの立派な寺に愛着を感じるのも当然で、これは直接的にも間接的にも彼らの力で建てられた建物である。建設のための実際の労働の少なからぬ部分が無償の奉仕によって行われたし、屋根に使う巨大な梁を遠い山の斜面から京都まで引いて来るのには、信徒の女性達の髪をより合わせた太い綱が用いられた。今も寺に保存されているその綱の一本を見ると、長さが三百六十フィート以上、直径がほぼ三十インチもある。

(中略)日本人がこれから入っていかねばならない、さらに広く厳しい世界での試練に備えて日本人の大きな助けとなるであろう。
(「日本の心」小泉八雲講談社学術文庫)


ラフカディオハーンは「庶民からの贈り物」というふうに表現したわけですが、真宗本廟は全国の門徒によって建てられました。資材や資金はいうまでもないですが、建設のための実際の労働の少なからぬ部分が無償の奉仕によって行われたということが書かれてありますが、大工もみなご門徒でした。


昨年、北海道からの奉仕団を担当したときのことです。御修復のためのご依頼金を完納したという記念に住職が奉仕団を呼びかけたところ、なんと30人近くの参加がありました。少し考えて見てください、私が京都へ行くときは往復15000円以内です。三時間もあれば余地から親鸞様のお膝元へ行くことは可能なんです。ところが北海道の方は飛行機で来ます。北海道を朝出て昼本願寺に着くということはない、本山に昼前に行こうと思ったらどこかで前泊する必要があるんです。必要経費は海外旅行と変わらないくらいだと推測します。「本山へいこう、親鸞さんに会いに行こう」そういう気持ちに感動します。


その座談会で一人の女性が語りました。彼女はまだ若い、50代くらいのかたでした。「私たちは、ない中で工面して御修復のためのお金を払いました。今回上山して、この本山の大きさに驚いて、昔の人がご苦労をされて残してくださったものに立って、ああ、私もこのお堂を後世の人に残したい、残すことで念仏の教えを伝えたい、そういうことを思いました、上山してよかったなと、本当に思います」その言葉に本当に感激しました。誰から教わったわけでない、自然に口から出た言葉なんです。


今全国のご門徒が、住職が今回の御修復のために苦労しています。以前と違って人足をだすということはないけれど、「ない中で工面して」という気持ちは皆さんのところにも多少なりともあると思います。実のところ光明寺門徒50軒というても、本山が東本願寺やら西本願寺やら浄土宗やらなんもわからなくなっているということが若い衆のところで今、現にあります。本山の御修復というのは度々あるわけでない、100年に一回のことです。なんもわけわからなくなっている今こそ、本山とは何か、先達が血の滲むような努力をして残してきた浄土真宗の教えとは何か、親鸞聖人の教えとは何か、大金を払うということで痛みを伴って痛み分けして、それぞれに確認する大切な、今この時が大切な機会なんだと思っています。


さあ、ずいぶん時間が超過してしまいました。まだ私の先生のこともお話をしたかったのですが、残念ですけれども、時間がありません。なんか話が繋がらなくなってしまいましたが、今日の讃題は歎異抄後序、「まことに如来の御恩ということをばさたなくして、われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり。」如来さんのことをほったらかして、いいとか悪いとかばかりにこころをくだいている、聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来さんと同じほどよし・あしを知るならわかるだろうが、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。


皆さん連日本当にたくさんのお参りをありがとうございました。よい天気が続いて出にくいはずなのに、ありがとうございました。参りにおいでるご門徒の方々をみて、いつも思うのは、それぞれに用事があるはずなのに、他にせんなん用事をほったらかして、ようこそ参ってくださったということです。今後とも共に聴聞させていただきたいと思います。またどうかよろしくお願いいたします。