法義相続

祠堂経法話満座07.03.15.
さてですね、父が突然亡くなって、僧侶の仕事をあちこちせんなんようになった。報恩講は、うちらでは20カ寺のお寺さんがおいでるから、参り会というて私も20カ寺行っている。それからお葬式に呼ばれる、セレモニーホールでやることもある、公民館でやることも多い。老人センターでは毎年追悼法要があって報恩講がある、はたと気付いた。「なんて浄土真宗のお内仏の多いことだろう」私らの公民館にはたいがいお内仏がある、セレモニーホールにもあるところがある。老人センターにまである、これは一体どういうことだろう、とびっくりしました。「真宗門徒の家が多いからあたりまえだ」と思いますか?これらは本来「公」のものです。それがあたりまえになるほど、これを「土徳どとく」というのですが、先達からお念仏の教えに会う機会をずっといただいて今まで来ているんです。そしてこれまた当たり前のように家にお内仏がある、おじいちゃんおばあちゃんが「なんや知らんけど熱心やった」大事にしていた。けれど、どんなふうにいいのか、なぜ一生懸命になっていたのか全体的にわからなくなっています。


自分は僧侶だから、「なんや知らんけど熱心やった」で、納得していっていいはずがない、お布施もらっているんですから、私のところでははっきりせんなん、どうやって伝えていこう、そう思っていました。


ところがね、そうでもないと思いました。
実はそのとうちゃんは、先日お話していた、おばあちゃんがたいへん熱心な真宗門徒やった。その母親が亡くなって、「骨収めに本山へ行きたいから、どうやいね、みんなで奉仕団へ行かんかね」と言ってくれた。おばあちゃんもよく奉仕団へ行っていた、(ここからは私の憶測なんですけれども)その背中を黙ってみとって、死に別れ、どうですかね、母親の求めていた道というか、熱心に求めとった念仏の教えをわしもちょっとこれから聞いていこうかなと、そういうことだと思うんです。私が鼻息荒くして伝えることではないのだ、皆さんがここにこうして足を運んでくださる、これが他でもない、「法義相続」、念仏の教えを伝えていくことになる、そうでないですかね。