浄土真宗の本尊

祠堂経法話07.3.20.(後半導入の余談―浄土真宗の本尊)
昨日帰ってすぐ今日の原稿を作って、ご飯を食べて、風呂に入った。「ああ、たくさんのお参りやったなぁ、みなさん喜んで聞いて下さったなぁ、うれしいねぇ、」それから「立派な阿弥陀さんやったなあ。あんなはっきりすそのところの蓮の花やらがついとる阿弥陀さんをはじめてみたなぁ」やっぱりこりゃ、本山で勉強してきた、この「浄土真宗のご本尊」についてお話を聞いてもらおうと思って原稿を作り直しました(笑)


さて、私はあるおうちの一周忌に行って、真宗阿弥陀さんでないから、その仏像をどかして隣の部屋にやって、法事をしたことがあります。真ん中なくても大丈夫なんですよ、なぜなら、ご本尊阿弥陀如来立像と脇掛の「帰命尽十方無碍光如来」「南無不可思議光如来」というのは全く同じ意味、「南無阿弥陀仏」ということです。まあちょっとこれは置いておくことにしましょう、


このご本尊について、いろいろな解釈があります。観経にでてくる、住立空中尊であるとか、観経の定善十三観のうちの第七華座観の仏だとかね、私は聞いていても、なんだか納得できないから、今まで一度も有縁の方にお話したことはありません。住立空中尊というんですから、浮いているはずですが、そんな感じではないし、第七華座観というても、花の上に、蓮華ですね、座ってるわけでなし、なんかしっくり来ませんでした。


蓮軸から光が放たれる、像である。蓮華、蓮の花の軸(棒のとこ)からの光、なんだと、光として届いた名号 南無阿弥陀仏が形になってあんなふうに見える。図 先生はちょろちょろとでとる、というていたが、これか、はじめてみた。 「名号即仏身」という言葉があります。仏身も光も等しい、 私のところに光が届いた、信心です。信心が南無阿弥陀仏が形になってあんなふうに見える。(棒(ひかり)がいっぱいあるのは)十方衆生にも同じことが起こる。帰命尽十方無碍光如来といいますが、十方衆生にも無碍の光が同じことが起こる。仏がオーラを放っているのではなく、一本が阿弥陀さんであると同時に、十方衆生に光が放たれている。そういう像なのです。


わが信心、御同朋、御同行の信心を同時に表すものが本尊なのです。如来のところからいたり届いている姿を本尊、ゆえに、浄土真宗の本尊を方便法身の尊形といいます。皆さんのお内仏、御絵像であれば、本山よりいただいたものであれば、かならず方便法身の尊形と書いてあります。蓮の花から放たれた法光の仏、法光が仏。『大無量寿経』の浄土観であり、「茎より出でてもとに蓮の花と葉を刻む」そういう像なんであります。続きは明日にします。