「追善」でなくて「追悼会」

今日は近くの村のお講の「報恩講」と「追善ついぜん」がおこなわれた。この村にはお寺がないので、T寺と当寺がかわりばんこにお講に呼ばれるのだが、そんなわけで今日は二カ寺そろって『正信偈』などを皆さんとお勤めした。準備は村の人とT寺さんが例年通りにしてくれたようである。
今週末は別の村の「追善」がおこなわれる。この村にも寺はあるのだが、わけあってほとんど休止状態なので、祖父が呼ばれていたのだけど、昨年から私が行くことになった。

この「追善」にまいっている。今日は準備をしていただいたこともあって、しゃしゃりでるのはやめたが、「追悼会」というべきであり、「追善のためにお経」はあげないはずなのだが、このネーミングでこれまでやってきたのだと思う。

週末の「追善」は私一人でご門徒と共につとめる。今年もまた「追善じゃなくて追悼会」だの、「親鸞は父母孝養のためとて一辺にても念仏申したることいまだそうらわず。」の話からはじめるのかと思うと、言葉や観念にがんじがらめになっている自分にいきづまる。
でも、「追善」でなくて「追悼会」なんだということで、繋がっていく、端的な浄土真宗の教えを伝えたい、という野望がある。最長20分くらいで。ぐぐぐ。