うあああ、三回忌忘れた。(三回忌法話)

六時半帰宅した。電話がかかって母がとった、「え、二時から三回忌?約束していた?」。うあああ、三回忌忘れた。「申し訳ございません、申し訳ございません。お経をあげにいっていいでしょうか、すぐ行きます。」着替えて走る。申し訳ないというのは、こんなことなのだと思う。言うまでもなく平謝りに謝って、裳付(ころも)五篠(袈裟)に着替えて、観経式で三回忌を勤める。その後、法話

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今日は本当にすみませんでした。悔やんでも悔やんでも悔やみきれません。申し訳ないというのは本当にこういうことなのだと思っています。すみませんでした。


私がお電話をいただいていたのに、本当にすっかり忘れておりました。先日から、法名軸を差し上げるお話をしておりまして、買って準備しておりまして、今日、帰宅しまして、明日こそは、このお父さんの法名を「書いてね」と母に言っていました。思えば、今日の日に間に合わすために準備したのに、そのことをすっかり忘れ、自分のお気楽さに腹が立つやら情けないやら、悔やみきれません。


今日は亡くなったお父さんの三回忌ということで、丸二年経ったということです。実は私も父を亡くしまして今年で丸五年になります。一年目はあっという間で、悲しくて辛くて心が痛かった、丸三年経つと少しずつ痛みがやわらいできた。三回忌は丸二年で、二年ではまだ悲しみの真っ最中であることを身をもって知っていたはずなのに、今日は本当に申し訳ありません。


先日○○さんの四十九日でした。明日は○○さんの四十九日法要です。「四十九日まであっという間だったね」と皆さん口々に言われ、私も申しておりました。私はパソコンで日記をつけていますが、そのことを書いたら、ある方が「私は四十九日まで長くて長くてその日が来ないのではないかとさえ思った、あなたは(僧侶だから)そんなことをいうべきではないのではありませんか」とおっしゃってくれました。大切な人と死に別れたときその悲しみはそれぞれであることを思い知らされました。


また、小児科医で真宗大谷派の僧侶である方が、一周忌、三回忌、七回忌、十五回忌、二十五回忌、三十三回忌、五十回忌と法要をするが、悲しみは年が経つと年々薄れるものではない、どんどん悲しみが増すということもある、とおっしゃいます。


浄土真宗は亡くなったことを縁として法要を重ねますが、お経をあげることによって、亡くなった方が楽になるとか、幸せになるとかという教えではありません。亡くなった方を縁としてお念仏の教えにあうということを願いとしています。お経は現代の私たちにはさっぱり何を言っているのかわからないけれど、お釈迦様=仏様の言葉がお経です。そしてお念仏の教えにあう、という願いがただ今こんな私がへたくそですけれどもお伝えする「お念仏の教え」です。


念仏の教えとは「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし。」ただ念仏=「南無阿弥陀仏」して阿弥陀仏にたすけられる。「南無阿弥陀仏」は阿弥陀仏におまかせする、ということです。これは一見現代的ではないように聞こえますが、実はそうではなくて、私たちはいつも自分の価値観でいいとか悪いとか決め付け、人を傷つけ、また自分を傷つけています。そうではない、阿弥陀仏におまかせする=「南無阿弥陀仏」、というのは、「自分のものさしで自分の価値観に頼って生きていることによって、周りの人を傷つけ自分を傷つけている生き方をしていることに気付かせられること」でございます。


そういうことで、また自分の日記に今日のこのことを、都合のいいことばかり書くのでなく、「天に恥じ、地に恥じる」という言葉がありますが、しっかり公開し、皆さんに謝りたい気持ちです。どうもすみませんでした。これで終わります。

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二度とこのようなことをしません。すみませんでした。