十人は十人ながら、百人は百人ながら、みな 

四 そもそも、男子も女人も、罪のふか(深)からん輩は、諸仏の悲願をたのみても、いまの時分は末代悪世なれば、諸仏の御ちからにては中々かなわざる時なり。これによりて、阿弥陀如来と申し奉るは、諸仏にすぐれて、十悪五逆の罪人を、我たすけんという大願をおこしましまして、阿弥陀仏となり給えり。この仏をふかくたのみて、一念、御たすけ候えと申さん衆生を、我たすけずは正覚ならじとちかいまします弥陀なれば、我等が極楽に往生せん事は、更にうたがいなし。このゆえに一心一向に、阿弥陀如来たすけ給えと、ふかく心にうたがいなく信じて、我が身の罪のふかき事をば、うちすて、仏にまかせまいらせて、一念の信心さだまらん輩は、十人は十人ながら、百人は百人ながら、みな浄土に往生すべき事、更に、うたがいなし。このうえには、なおなお、とうとくおもいたてまつらんこころのおこらん時は、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と、時をもいわず、所をもきらわず、念仏申すべし。これをすなわち仏恩報謝の念仏と申すなり。あなかしこ、あなかしこ。