「藤場俊基師の講義から学んだことを伝えたい。」永代経法話1後半

謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について、真実の教行信証あり。
 それ、真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり。

親鸞聖人は大経は真実だとはいっていない。と藤場先生はおっしゃった。真実の教は大経だが、大経は真実とはいっていない。
真実の教えは大経で遇うた、涅槃経、法華経ではなかった。

これは私たち一人一人が大経に、真実の教えにあっているか、ということなんだ。真実の教えに大経で遇うているか。


教行信証』教の巻の続きの言葉をみますと、

この経の大意は、(『大経』の大まかな意味は)弥陀、誓いを超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れみて、選びて功徳の宝を施することをいたす。(先ほども申しました、諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、いろいろな仏の国の成り立った原因と、そこに住むものの善し悪しをすべて見て、無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。この上なくすばらしい本願を建て、誓われた。)釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萠を拯い、恵むに真実の利をもってせんと欲してなり。(釈尊が世に出でまして、生きとしいける者を真実の教えによってすくわんと思われた。真実の教があきらかになっている)
そしてこのあとすぐ宗致(いのち)。
ここをもって、如来の本願を説きて、経の宗致とす。すなわち、仏の名号をもって、経の体とするなり。

無量寿経のいのちはおもしろいことに本願を説くこと。「本願」ではなく「説くこと」。
体は、仏の名号をもって体とする。親鸞聖人が教巻に書いてあるところは、真実の教は『無量寿経』であきらかになった。経の宗致は、如来の本願を説くことで、経の体が名号。ところが真実の結論が本願・名号というのが、凡夫にはうけいれられないのがあたりまえ。あなたは一体何を信頼できるのか、そういうことだと先生はいう。信頼できるものがあきらかになれば、結論が後からついてくる。

親鸞には大経が親鸞できる教え、なぜ信頼できるのか、これが教巻に書かれる。仏の名号をもって経の体とするのところに、何をもって知ることが出来るのか、出世の大事、出世、仏が世に出てくる一大事、そうかかれるが、「釈尊の教えは南無阿弥陀仏である」と偉い先生がいっていたのを想いだします。どうですかね。


仏なら、仏が仏(覚った人)だとわかるが、凡夫が覚った人わかるだろうか、仏が仏とわかる。知りえないもの凡夫が、仏の教えをなぜ聞ける?
迷ったものが迷ったものの話を聞いても覚ることは無い。
例えばスーパーでこんにゃくを買うということも、こんにゃくを知らないと買えないように、仏が目の前にいてもわからない。念仏しなさいと言うても、信頼できない。ところが、この確かめのところで、『真宗聖典』でいうと、152頁からわずか3頁で決定している。

それが、これは発起序といって、大経の序文に書かれていること。説法が始まる前の話で、阿難と釈尊のやりとりなんですが、

その時、世尊、諸根悦予し姿色清浄にして光顔魏魏とまします。尊者阿難、仏の聖旨を承けてすなわち座より起ち、偏えに右の肩を袒ぎ、長跪合掌して仏に白して言さく、「今日、世尊、諸根悦予し姿色清浄にして、光顔魏魏とまします。明らかなる浄鏡の裏表に影暢するがごとし。威容顕曜にして超絶したまえること無量なり。未だ曾て瞻覩せず。殊妙なること今のごとくましますをば、唯然り。大聖、我が心に念言すらく、今日、世尊、奇特の法に住したまえり。今日、世雄、仏の所住に住したまえり。今日、世眼、導師の行に住したまえり。今日、世英、最勝の道に住したまえり。今日、天尊、如来の徳を行じたまえり。去・来・現の仏、仏と仏と相念じたまえり。今の仏も諸仏を念じたまうことなきことを得んや。何がゆえぞ威神光光たること乃し爾る」と。
ここに世尊、阿難に告げて曰わく、「云何ぞ阿難、諸天の汝を教えて仏に来し問わしむるや。自ら慧見をもって威顔を問いたてまつるや。」阿難、仏に白さく、「諸天に来りて我に教うる者、あることなし。自ら所見をもってこの義を問いたてまつるのみ」と。
*008仏の言わく、「善きかなや。阿難、問いたてまつるところ、甚だ快し。深き智慧・真妙の弁才を発して衆生を愍念してこの慧義を問えり。如来、無蓋の大悲をもって三界を矜哀したまう。世に出興したまう所以は、道教を光闡して、群萠を拯い恵むに真実の利をもってせんと欲してなり。無量億劫に値いたてまつること難く、見たてまつること難し。霊瑞華の、時あって時に乃し出ずるがごとし。今、問えるところは饒益するところ多し。一切の諸天・人民を開化す。阿難、当に知るべし、如来の正覚、その智量り難くして導御したまうところ多し。慧見無碍にして、能く遏絶することなし。一餐の力をもって、能く寿命を住めたまうこと、億百千劫無数無量にして、またこれよりも過ぎたり。諸根悦予してもって毀損せず。姿色変ぜず。光顔異なることなし。所以は何となれば、如来は定・慧、究暢したまえること極まりなし。一切の法において自在を得たまえり。阿難、あきらかに聴け。今、汝がために説かん。」対えて曰わく、「唯然り。願楽して聞きたまえんと欲う。」

(大経和讃)
<第一首>
尊者阿難座よりたち
世尊の威光を瞻仰し
生希有心とおどろかし
未曾有見とぞあやしみし

<第二首>
如来の光瑞希有にして
阿難はなはだこころよく
如是之義ととえりしに
出世の本意あらわせり

<第三首>
大寂定にいりたまい
如来の光顔たえにして
阿難の恵見をみそなわし
問斯恵義とほめたまう

注目すべきはここにでてくるアナンは未覚。そのアナンが、釈尊に対して、威光、厳かに光り輝くお体、あなたの体に如来・・・せんごう、仰ぎ見る。そのように問い、釈尊驚かれる。アナンからこのような言葉がでてくることに驚いた。未覚の者から出てくるはずの無い、らしからぬ問い。返問、確認する。「天の声」か、あなた自身「智慧」(慧見)を得たのか、いずれかの宗教的体験を得て、いままでのおまえと違うのか?と問う。


アナンはどちらも否定する。釈尊智慧を見た。アナンは智慧と思っていない。所見―ただみたところ。これだけのことで信頼した。智慧と一方は無自覚のまま。ここに教えに出遇って行く事の難しさと確かさがあります。


法華経』の方便品『大経』でいえば発起序では、説法が始まるまで経緯が書かれる。(序文と正宗分の関係。)(『観経』でいえば王舎城。)方便品は「三止三請」釈尊が禅定から覚め、感得していた、仏と仏のみ、唯仏の知見。仏レベルで無いと、仏のことはわからない。いいはじめてやめとこう、いっても誰もわからないと思った。
舎利弗が「お願いします。」釈尊は、「誤解する、増上慢―思い上がりの人が聞いたら大きな穴に落ちる。」舎利弗は「仏の智慧が聞きたい、お願いします。」三回請うということで、ようやく説こう、ということになった。その場に数万人がいたが、そのやり取りについて、五千人が失礼だと憤慨して帰る。


すると釈尊は「これで増上慢の人たちがいなくなった」といってようやく語った。「四十余年未顕真実」、四十余年顕かになったことがない真実。これで真実教だと間違いないわけです。
法華経』はご存知のように、○○学会や○○宗ですね。これは「地盤」の問題です。これを持って『法華経』の地盤を強固とする。どんな地震が来ても地盤がしっかりしているから大丈夫やと。面白いですね。


さて、親鸞聖人は、9歳から(出家し、比叡山で)『法華経』を中心に修行する。ところが訣別するんですね。『教行信証』では二回引用、弥勒菩薩と菩薩の還相回向のところにでてくるのみ。
なぜ、親鸞は『法華経』と訣別したか、それは教えの問題ではなく、私の問題。
法華経』が真実だとかそうで無いとか出なく、怒って帰っていった五千人の問題、教えがどうという判断基準以前の問題。私がここにいる自信が増上慢なんだ。根拠がはっきりしないから、見極める力があるか、そこに残れるかどうか問われてしまう。どうですかね、「念仏です」と念仏しなさいと勧められた時に拒否する。それが私たちの増上慢、私たちは真実のままに聞く事が出来るか。


親鸞は『大経』で先ほどの上巻の中で、阿難が未覚者であるということ、無自覚のままに見仏、気付いていない。仏を見ていながら、気がつかないが、仏の方から気付いてくださった。私の方に智慧があるのではなく、対告衆(たいごうしゅう)、無自覚の者を相手にした。これだけで信頼した。


法華経』は真実教、留まる人に説いた。ところが『大経』は無自覚の人に。私には資格が無い、力が無い。その説法を信頼する。無自覚だという事実を根拠に。無自覚は不安定だけれども間違いが無い。例えばどんな地震が来ても、地盤がしっかりしているから大丈夫なので無い。揺れて揺れているままのところに建てる。揺れ動く私は判断しない。


そこまでいうてもまだ「なんで念仏せんなん」という葛藤が続く。そのために『大経』はどんな内容なのか、じたばたと勉強することになる。そういう話を聞いてですね、感激していたわけです。今お話したことは親鸞がなぜ真実教が『大経』であるとしたのかを聞いたもので、他宗や『法華経』の批判ではありませんし、『法華経』のことを聞かれても正直こたえることが出来ません。


さて、そういうことで、どうですかね、日頃の生活では「なんで念仏せんなん」ということさえないんでないか、私だけですかね。毎朝お仏供をそなえる、私やったら参りにいって阿弥陀経をあげて念仏を称える、そういうことが習慣になってもういちいち思いを掛けることがない、法事でようやく、ちょっとそちらに目や気が向くという事があります。

それから昨日、娘が保育園で話題になったから観たいというので、一緒に「本当にあった怖い話」を私はお化けがでたら目をつぶって横にいて見ていたのですが、そこにですね、中川祥子ちゃん、しょこたんとか呼ばれていました、なんですかね、「ギザ、燃ユスル」と聞いたことないですか、ギザというのは、彼女の作った言葉なのかな、「すごい」ということらしいですが、その流行の、小さい顔したかわいい女性に悪霊がついているとかいって、除霊をしていました。除霊師とスタッフというか数人がいて、皆で声を揃えて早いお経をあげ、一人が霊に呼びかける。彼女は霊と話をする時に、指揮者のようにお経を止めていたので、ちょっとこころ揺さぶられました。

そういうことになぜかお経はセットなんですね。これどういうことかなと、
除霊やらお化けらやとあほらしいと思いますが、そういうことで逆に、では宗教とはなんだろうと、自分のお寺や仏事というのはなんなんだと、思いを掛けることができるというのは、法事と同じくらいのきっかけになるなと、苦笑していたのですが、どうでしょうね。


先日、図書館で「やさしい仏教 お寺なぜなぜ辞典」という本を借りて来ました。寺に生まれて、まるでエスカレーター式のように僧侶になって、お寺がわからないのは、実は私自身です。(浄土真宗の本ではありませんが、)この本には(もくじをよむ)なかなか面白いことがたくさん書かれていました。「お寺とは何をするところなのですか」―お寺とは仏像のおまつりしてあるところ。仏像は、仏様の姿を表したもので、仏様は立派な人だから尊敬しなければなりません、お経は仏様の教えが書いてあるが、これをよく読んで理解すればほんでいいかというと、そうではなく、それはただ理屈がわかるだけ。役に立たない。お寺に行って仏像にお参りして、手を合わしてこころ静かにして、仏様が語りかけられることを聞くのだと。


ところが、あまのじゃくですので、どうなんかなあと、算数のこたえのように、「なぜ」に答えがあってよいものなのかなぁと、思います。この前法事でお斎の時に横に中学三年生のお兄ちゃんが座って、「お寺というのは鐘がある、それから賽銭箱が・・・」と言っていました。もしかしたら鐘というのは梵鐘のことでなくて彼はマネーのことをいったのかもしれません。なかなか興味深く思いました。


今日は「なぜ『大経』か」ということをお話したつもりですが、これをまとめていたら、一体全体、念仏ということすら出てこない日々であると、では宗教とはなんだろう、そんなふうにもんもんとなっているわけです。結論も何もなくて申し訳ございませんが、そんなわけでまた明日、続きをお話したいと思っています。お参りいただきまして、ありがとうございました。