大丈夫が気に入らない

久しぶりに帰ってきた妹が力説した。「大丈夫」が気に入らない、というた。妹は「なんか違う」と言いながらそれ以上言葉に出来なくて、興奮していた。何があっても大丈夫、大丈夫、本当にそんなことが大切か?なんでもものは考えよう、自分の考えによって、悩むのが自分、それはそうに違いないけれど、なにかはぐらかすように、「大丈夫」と、そう思うべきなのか。

それで私はもう亡くなった和田先生の言葉を思い出した。先生は大聖寺の寺に生まれて、お念仏の教えを勉強して、日夜、ありがたいありがたいと、念仏を称えた。朝起きてからずっとご飯をご飯を食べているときも風呂に入っているときも、寝るときも、電車で移動する時さえ南無阿弥陀仏と念仏を申していた。とまらない!どうしたら止まるだろうとさえ思ったほどだった。
ところが戦争に行って、その念仏は止まった。喜びや感謝に溢れたその念仏は何の役にも立たなかった。

僕は、戦争の最中に、それまで親鸞聖人に学んできて獲得したつもりの信心がみな壊れたんです。何で壊れたかと言うと、毎日毎日アメリカの艦砲射撃と銃撃と爆撃を受けて、その上、食う物がなくなって、みんな顔だけふくれ、足が蚊トンボみたいになって餓死していくんですよ。そんな中におってお念仏が間に合いますか。全てのものは大きな調和にあって恵まれておるんだ、何一つ無駄なものはないんだという、そんな感動が間に合いますか。合わんでしょう。そういう厳しい現実に向かったときに、こういう教えはまったく間に合わんのです。全然間に合わなかった。
著書『終わりなき歩みを共に』より

終わりなき歩みを共に―親鸞の生涯に学ぶ

終わりなき歩みを共に―親鸞の生涯に学ぶ

「念仏していれば大丈夫」そんなわけはないんです。むしろ「安心してはいけないはずなんだ」と今度は姉妹で意気投合した。親鸞聖人の言葉は足元に帰る教えである。救われると言うことはユートピア(幸せの国)を求めることでない。

昨年、佐野明弘さんより聞いた言葉に涙したことがありました。

観無量寿経」は、字のとおり、仏を見立てまつることができるお経だと言われてきた。このお経にであった善導は躍り上がって喜んだ。ところが変わって行く。

親鸞聖人は、善導独り仏の正意、本当に言いたかったことを、明(みょう)、あきらかにした。という。善導や親鸞聖人は、『観経(観無量寿経)』を、「無量寿仏観経」といただく。仏を観る念仏、観ていくような教え、人間の理想の延長としての浄土から、唯、口に称える念仏に変わる。転換していく。それまでは浄土に生まれる世界を求め、お経にあることをすることで、浄土に生まれることができると思われてきた。

違うのだ。観経、そのお経は、うちひしがれたものの足元に聞こえてくる。犯した罪に苦しんでいることすら気付くことない五濁悪世の私たちに、空に向かって望む浄土ではなく、大地、足元、足元に聞こえてくる本願の呼び声としての浄土。そのことを、難しい言葉で言うと、「古今楷定」という。
楷というのは、正しく読みかえした。もう一度読み換えたという意味です。

聖者が修行するものでない。悲しみのところに、うちひしがれひれふしたもののために、大悲の本願が衆生の迷いの中に姿を現したようなお経だったと読みかえした。善導によって本当の意味が世に照らし出された。善導独り仏の正意、本当に言いたかったことを、明(みょう)、あきらかにした。

浄土教と言うもの、仏さまのお心を明らかにしてくださった。浄土教と言うから、浄土を明らかにしたようだが、顕浄土真実と言って、かえって浄土教によって人間をもう一度深く見つめなおされてきた。そのことがあってはじめて念仏の本当の意味が世に照らし出されてきた。信心もない、手を合わす心もないもののために説かれたお経。
S寺報恩講 2009.11.12. 佐野明弘師法話

それは誰か。私のことであった。

それで安心できますか。無慚無愧、無慚愧は名づけて人とせずなづけて畜生とす。畜生とは独りでは生きれないものです。誰かに養われて生きるものの。何かに責任を押し付けて生きるもののことです。恥じる心もなく、何かに責任を押し付けて生きている。そのことを愧じることすら忘れている。
(続く)