気晴らし

人間の行動は死を忘れるための気晴らしである
パスカル「パンセ」
NHK 100分 de 名著 より

生あるものは必ず死に向かって生きる。死そのものよりも死を考えることは恐怖である。その死を考えないため、死への壁をたくさん作るため、考え行動する。
壁が薄くて困る。

今週のお題「父との思い出」

「パーフェクトリポート」の再放送を録画して観た。どうしても残しておきたい言葉がある。

青山叶が、父義男につぶやいた。
叶:「ねぇ、父さん、私さ、光輝くんとも話せるようになったし、信頼できる仲間も出来た。それなのに、迷うことが多くなっちゃって。」
父:「そりゃ、お前も成長したってことなんじゃないか。」
叶:「え?」
父:「経験を積めば積むほど視野が広がって、いろんなものが見えくるようになる。その分選択肢だって増えてくる。だから迷って当然なんだよ。そんなもんだよ。」


中原 丈雄氏が演じた父親に、失った時が重なった。私の父は61歳で亡くなった。父にそっと弱音を吐くようなかわいい娘ではなかった。でも、お腹の娘に心臓の障害が出るかもしれないことを父にだけは話した。心配そうだった。亡くなってから17日後に娘は産まれた。青白くてとっても小さかったけれど、会わせたかった。父が亡くなって10年、法話も法務も迷うことが多くなってきた。だけど、安心して迷うことにしようか。

へんなくせがあちこちに

宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌同朋唱和勤行集【東本願寺企画・製作】(緑の本のDVD)をリピートリピートして観ていた。もちろん一緒に声も出してみた。正信偈真四句目下は二学期真面目にS先生の授業に出てがんばったので出来ていると思っていたのが、とても恥ずかしい。へんなくせがあちこちにすごくついている。直すのは相当難しい。初心に帰ってまた明日もリピートしよう。大切な後輩が増えてきた。しっかりしなくてはならない。

報恩講シーズンスタート

5月から報恩講シーズンなところもあるが、私は6月半ばからシーズンを迎える。もちろん10月が一番多い。五篠袈裟は暑い。今から9月半ばくらいまでは滝汗必須である。昨日今日明日は式司(座配)を任せられた。以前もアップしたが、アンチョコはパワーアップしている。そろそろ見なくても出来るかな。と、思ったのだが、「登盤」を「とうはん」と言ってしまったことを今気付いたぞ。そっか、だからあのご住職はきょっ、と私を見たんだな。なにせ、今まで「登板」だと思っていたんだよ。野球じゃないね。音は「とうばん」今後は間違えないように。
来週は当寺報恩講である。今年はちょっとやることを書いておく。


14日前 

  • 寺の周りの草を草刈り機で刈る。要るもの、み、竹ぼうき、熊手。
  • 報恩講状発送(遅くとも8日前には済ます)。花の注文。

13日前 

  • 駐車場の草を刈る。内陣をダスキンで掃除。本堂を掃除機する。
  • 客間の離れを掃除する。客間のトイレ掃除する。
  • 窓ガラスをふく。
  • 缶ジュース(コーヒー、お茶、ジュースなど)買ってくる。高いガムテープ、セロテープ、お供えなど買ってくる。お引きの準備。

一週間前

  • ご講師に案内発送
  • 寺の周りの草をヒモで刈る。駐車場の草を刈る。玉砂利の間の草を抜く。
  • 報恩講の看板を立てる。
  • 座敷の掃除。お斎の茶碗を出す。皿を拭くタオル用意。
  • おみがきの為に仏具をすべて下ろす。ブルーシートとジャンボたらい、テガール、キクロンタワシ、軍手準備。
  • ろうそく4座×3 12本 御伝鈔2本 数確認、注文。炭を忘れない。
  • 法中のお菓子注文 30人前
  • うしろどの掃除、ゴザをひく

二日前

  • おみがき
  • 内陣を水ぶきで掃除して荘厳。水引、内敷(祖師前も忘れずに)
  • 内陣の五色幕張る。
  • お供えを用意して、供笥を三対お華束盛る。
  • 報恩講の四副の掛け軸(始之巻内側終之巻外側)をかけ、右余間に聖徳太子(内側)と七高僧(外側)の軸をかける。法名を脇に移動。


前日

  • 内陣の花を立てる。
  • 客間の離れを掃除する、花を生ける。客間のトイレ掃除する。本堂の掃除機する。トイレ掃除する。
  • 五色幕張る。紋の幕張る。
  • 法礼のピン札銀行で準備。講師のお土産準備、お菓子は法中と同じく。
  • 玄関と式だい掃除、花を飾る。

当日午前中

  • 階段、本堂の入り口掃除

忘れてることないかなぁ。柄香炉と和讃本と仏器をリニューアルした。お太子の軸の紐切れた。あの紐、細いんだよな。

座配のポイント

座配のポイントについて、これまで学んだことをまとめると、まずご調声は出来る方にお願いする。六首目や結讃も出来る方にお願いする。そしてご登盤を出来る方にお願いする。このお三方が決まれば、式間念仏、二首目(次第六首の場合)は、ご年配の方にお願いする。五首目は高音が得意な方に、不慣れな方は、四首目。三首目は声が出しやすい(次第三首や四首では二首目)ので、お若い方にもお願いしやすい。式間念仏について、私の方では御代前一で、ご年配の方にお願いすることが多いが、場所によっては、御代前二で、若手がするものだと教えていただいた。その場合は御代前一は二首目の方が座る。また、六首目や結讃はご年配には失礼。でも場所によっては違うのかもしれない。いろいろあるのだ。
御老僧K寺さんが結讃をなさったのは、私が知らなくて、お願いしたのを、仕方なく引き受けてくれたのが最後だったと思う。「あんたがいうなら、しょうがない、やるか。」と言ってくれた。

報恩講の立花

報恩講の立花は、立派。中尊前だけ五具足だから、花瓶は6つ。一つ一万円が相場です。もちろんもっと高額なお寺もあります。うちは自分で立てるので全部で四万位で立てます。花屋さんによっては四万の予算でお願いすることも出来るそうですが、当然金額に見合うものになるようです。一年に一回の報恩講なので、けちってはいけないのだけど、入る本数は限られています。横から見てがっつり三角になると美しい。K氏曰く、「ソフトクリームのコーンを逆さにして、半分に切ったような」のが、美しい。当然入れるのにはテクニックがいります。
大谷派の立花は池坊が基本です。坊守会の講習会資料↓

先生の立てられた立花を見たことがありますが、すばらしかった。絵は松だけど、うちはヒバでたてます。一本300円。しかし、3本いるので、真で900円。中菊は一本200円、1,3,5,7本と1,3,5本用意。カサブランカ一本700円くらい。後は何をいれましょうか。前置きの下、足元をきれいに出す。
追記:今年の当寺報恩講立花の図↓

ほぼ構想通りに立てることができました。(http://d.hatena.ne.jp/nikoju/20120624/1340468270)

老人会法話「法義相続」

5年ぶりにその老人会から法話の依頼を受けた。調子よくないんだけど大丈夫かなぁ。原稿は仕上がった。先日友人の法話を聞いた。私も独り言ばっかりいうのはもうそろそろやめて、彼のように呼びかけなければならないのだけれど、踏み出せないなぁ。

久々恥をアップします。
「唯念仏して弥陀にたすけられまいらすべし(歎異抄)」これが結論ですね。でもみなさん、たすけられたいですか。そのすくいはなにか。すくいというのは、私を生きることができることがすくいだと聞いてきました。「そのままのおたすけ」「ほんでいいがや」子どものころから目に耳にしてきました。

浄土真宗とは― 字のごとく、浄土を真とすることを宗(中心)とする。浄土によって知らされる私たちの生きる穢土は三毒の世界。貪瞋痴(貪欲―貪り 瞋恚―怒り・うらむ 愚痴―おろかさ)の私の世界、私が照らされ、知らされる。浄土真宗のすくいは、現在ただ今の私が知らされること。

(歎異抄第一条)「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」、正信偈なら、極重の悪人、邪見(よこしまな考え方)驕慢(おごり)の悪衆生、一生悪を造る(れども)いっしょうぞうあく。「悪」私たちの先輩は、私のことでしたといただいてきた。お父さんお母さんおじいちゃんおばあちゃん、ご先祖から繋がれて私たちは今ここにいる。本当は、伝えていかんなん大事なお仕事もあるのですが、みなさんどうですか?

「悪の私」だから、阿弥陀仏に浄土に生まれたいと願いなさいと呼びかけられ、その声に応えて念仏することがすくいになる。この如来のよびかけを「回向」 ― 行はたらきだと聞いてきた。私が念仏申す前に呼びかけてくださっている。だから、その声が届いて念仏する時、すでにたすかっている。

念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。(歎異抄)

それは、知らされた悪い悲しみの私が私のままで許され、生きることができるのが救い。称名念仏するだけ、唯称えるだけで、いつでもどこでも誰でも、すくわれる。阿弥陀仏は、簡(えら)ばず、嫌(きら)わず、見捨てず すくう。どんな私も、私が見放してしまうほどの私でも、阿弥陀仏によって、如来の不思議な誓願・約束の力によって、これまでしたことが問われないで助かっていく事実がある。(佐野明弘さんの言葉) すくい。どんな私の存在もすでに許されている。


如来は私が念仏するのを、その時を待って呼びかけておられる。親鸞聖人もまた、私が念仏することを待っておられる。私たちはなかなか念仏できないけれど、待たれている身。そうであるかぎり、佐野明弘先生の言葉で言うと、私が「たすけてください」といえば、いつでもどこでも「たすけていただくことができる」人間の持っている最後の言葉は「たすけてください」その人間の苦悩のところに、お念仏の教えが届く。

じいちゃんが、本願に会うために生まれてきたんだと、本願に会えば、私は、尊い命をいただいていかされていることがわかるというのだけれども、私は長い間聞いてきたけれどもわかりませんでした。けれどもとても大事なことのように思ってきました。それを佐野さんが現代の言葉にしてくれた。「本願」は、「たすけてください」という、人間の苦悩のところに、届く。すくいを求める気持ちに、いつでもどこでも誰でも、私でもすくわれる。これが私の法義相続です。教えの要を伝え続けて行く。生き迷ったらどうか、思い出して下さい。