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竊かに愚案を回らして粗古今を勘うるに、先師の口伝之真信に異なることを歎き、後学相続之疑惑あることを思うに、幸いに有縁知識者依らずは、いかでか易行一門にいることを得んや。全以自見之覚悟をもって、他力之宗旨を乱すことなかれ。よって、故親鸞聖人御物語之趣、耳底にとどまるところ、いささかこれをしるす。偏に同心の行者之不審を散ぜんが為也と云々(歎異抄序文)

(愚かな私なりに親鸞聖人のご在世のころと、なくなられた今日とを思い比べてみるのに、)(嘆かわしいことではあるが、聖人の口から直接教えてくださった真実の信心が誤られており、あとの人(後進)がまことの信心を受け継いでいくときにおこる疑いやまどいが生ずるのではなかろうか、と案じられてならない。)(もし、私たちが縁あってよき師にあうことがないならば、どうして万人が等しく救われるたもちやすく行いやすい行である、念仏の一門(念仏の道)に入ることが出来ようか。)(だから必ず必ず自分勝手な解釈によって、ひとえに他力によって生きることを宗とするいわれを混乱さすようなことをしてはならない。)(それゆえに私は、なき親鸞聖人がお話くださったみ教え、耳の底に留まって忘れようにも忘れることができないお言葉をわずかながら書き記すのである。)(これはただ同じ志をいだく同朋たちが、不審に思っていることを晴らしたいと願う気持ちからである。)
そして大切なのは、これは後序といって歎異抄の最後のところになづけて『歎異抄』というべし。外見あるべからず。とあるんですが

親鸞のおおせごとそうらいしおもむき、百分が一、かたはしばかりをも、おもいいで まいらせて、かきつけそうろうなり。一室の行者のなかに、信心ことなることなからんために、なくなくふでをそめてこれをしるす。なづけて『歎異抄』というべし。外見あるべからず。

親鸞聖人がおっしゃっておられたことを、100分の1、端っこばかりかも知れんけど、思い出して書き付けると、同じ、親鸞聖人の教えに生きるものが、おかしいことにならんように、泣く泣く筆を執ったと、そして、歎異抄となづけるんだと、耳の底に留まるというのは、思い出してある過去のことではなく、現在ただ今、唯円坊、自身の全存在を歎異し続けている先師の教言葉にほかならない。
もしそうでないなら、同心の行者之不審を散ぜんが為の書、先師親鸞聖人の口伝を教権として異端を改めたり排したりしようとする改邪の書でだけあるなら、悲嘆述懐の「なくなく筆をそめた書」にはならない、耳の底に留まっている聖人の言葉に、何よりも自分が歎異されたと、聖人に聞いてきたことと違っていることを嘆いた、そして泣く泣く筆を記す、そうやってできたのか『歎異抄』だという、廣瀬杲師のことば、しびれます。参考『歎異抄講話1 廣瀬杲(法蔵館)』