言葉からの響き

プロフィールを書きたすために過去の日記を整理していた。大事な言葉なのでここに残します。
廣瀬先生は、親鸞を初めて学ぶということになると「本願」「念仏」「信心」「往生」私たちの日常用語の中に入ってこないような言葉に対して一々それを解説する必要がないように感じると。そういう解説に先立って、もうひとつ明らかにしておかねばならないこと、それはなにかそういう言葉から受ける響きというものを、第一に私達は感じ取らなくてはならないと思うのであります。そういうことで、金子大栄(先生)の「歎異抄(岩波文庫)」について、かなり前に出版されたのに版が重ねられ、部数も増えている、それは言葉の解説に先だって、何かその言葉がわれわれに触れて響くものがあって、その響きを通して現代人が親鸞に触れ「歎異抄」の精神に触れ、・・・と書かれている。

私たちは生きております。これは間違いのないことです。しかし生きておりながら、ほんとうに生きているということを、私たちは確認したことがあるでしょうか。一体私たちはいつまでいきていけるかわかりませんけれども、そのいつまで生きているかわからない人生というものにあって、ほんとうに生きてよかった、人として生まれたことは、尊く有難いことであったといえるような、そういう世界に私たちは目を開いたことがあるでしょうか。親鸞聖人が法然上人にお遇いしたというその感激一つを九十年の生涯唯一つ記されたということは、実は、法然上人の教えを通して人として生まれたことの尊さに目が開け、それによってどういう人生を生きていこうとも、その人生全体はこれほどに尊いものであり、値打ちのあるものだということを確認して行かれたことを物語ってるのでありましょう。これが真宗に遇うたということなのであります。『歎異抄講話1 廣瀬杲(法蔵館)』より

「わかりやすいのに深い」これがすごい、もそーっとしたおじいさんだったのにな。それにしてもどうして「ほんとう」はひらがななのかな、誰か知らないかなぁ。