お講の予習『歎異抄第十四条』意訳(1)

参考:『歎異抄講話3 高倉会館法話集』(著者:廣瀬杲 発行:法蔵館)
十四 一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしということ。この条は、十悪五逆の罪人、日ごろ念仏をもうさずして、命終のとき、はじめて善知識のおしえにて、一念もうせば八十億劫のつみを滅し、十念もうせば、十八十億劫の重罪を滅して往生すといえり。これは、十悪五逆の軽重をしらせんがために、一念十念といえるか、滅罪の利益なり。いまだわれらが信ずるところにおよばず。

一声でも念仏を称えると、たちまちにして八十億劫という長い間、苦しみ続けなくてはならない重い罪科でさえも滅し切ることだと信じて念仏称えなさい、と言い立てているものがいるが、こうした主張は、十悪、五逆というような罪ばかりを造っていながら、平常は念仏など申したこともない者でも、臨終の時に始めて良き師に会って、一声念仏すれば八十億劫の罪科が滅し、十声念仏すれば、その十倍(十八十億劫)の罪科すらも消え去る、と説かれている経典の説を根拠としたもの(『観経』下本下生品(注) )であろうが、この経典の本意は、十悪、五逆の罪の軽重ということを、具体的に知らしめようとして、一声の念仏、十声の念仏と説かれたのであり、それと同時に、念仏の功徳としての滅罪ということを教えられたものなのである。ところが異義を主張する者たちは、この滅罪の功徳ということだけに目を付けて、念仏そのものを滅罪のための方法だと主張しているのである。こうして念仏を滅罪の手段と考えて自分の力で念仏を称え、それによって助かろうとすることは、私たちの信心とは程遠いものである。

(注)『観経 下本下生品』仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「「下品下生」というは、あるいは衆生ありて、不善業たる五逆・十悪を作る。もろもろの不善を具せるかくのごときの愚人、悪業をもってのゆえに悪道に堕すべし。多劫を経歴して、苦を受くること窮まりなからん。かくのごときの愚人、命終の時に臨みて、善知識の、種種に安慰して、ために妙法を説き、教えて念仏せしむるに遇わん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友告げて言わく、「汝もし念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべし」と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆえに、念念の中において八十億劫の生死の罪を除く。