第十二条 意訳(3)

参考:『歎異抄講話3 高倉会館法話集』(著者:廣瀬杲 発行:法蔵館)
故聖人のおおせには、「この法を信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏ときおかせたまいたることなれば、われはすでに信じたてまつる。またひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられそうろう。しかれば往生はいよいよ一定とおもいたまうべきなり。あやまって、そしるひとのそうらわざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんとも、おぼえそうらいぬべけれ。

また、今は亡き親鸞聖人の仰せによれば、念仏の教えを信ずる人もあれば謗る人もあるに違いないと、仏がすでに説いておられる。だから、自分はすでに信じており、また、他の人が謗るという事実があるということも、仏説のまことである証拠であると知ることもできるのである。だからこそ、往生はいよいよ間違いはないと思い知るべきである。もしそうではなくして、謗るものが一人もいないということになると、どうして信ずる人ばかりで謗る人がいないのだろうかと、かえって疑問に思うて、不安にもなるのではないだろうか。


かくもうせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず。仏の、かねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとのうたがいをあらせじと、ときおかせたまうことをもうすなり」とこそそうらいしか。

こうしたことを言うたからというて、なにも、ぜひ他の人に謗られたいなどと言うているのではない。ただ仏はかねてから、信ずるものも謗るものもあるということをご存知のうえで、人びとの疑いがないようにと、説いておいてくださっているのだということを私は指摘をしているというだけのことなのである、といわれたではないか。


いまの世には学文して、ひとのそしりをやめ、ひとえに論義問答むねとせんとかまえられそうろうにや。学問せば、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いやしからん身にて往生はいかが、なんどとあやぶまんひとにも、本願には善悪浄穢なきおもむきをも、とききかせられそうらわばこそ、学生のかいにてもそうらわめ。

ところが、今の念仏者のなかには学問することによって、他人の誹謗をやめさせせ、ひたすら論争をしようと身構えている者がいるのではないか。それは大きな誤りである。しかし、本当に学問をするならば、ますます如来のご本意がわかり、大悲の本願の広大さの理由もわかるはずである。そうなれば、もし、こんないやしい自分ではとても往生はできないだろうと不安に思っている人びとに対しても、阿弥陀の本願は、善も悪も浄も穢も差別することなく平等に救うはたらきであるという趣旨を、ねんごろに説き聞かせてあげることができてこそ、学問をする者としての甲斐があるというものである。


たまたま、なにごころもなく、本願に相応して念仏するひとをも、学文してこそなんどといいおどさるること、法の魔障なり。仏の怨敵なり。自ら他力の信心かくるのみならず、あやまって、他をまよわさんとす。つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。かねてあわれむべし、弥陀の本願にあらざることをと云々

それを反対に、本願の趣旨に添って素直に念仏する人々に向かって、学問をしてこそ往生はできるのだ、などといって驚かし、不安にするということは、明かに仏法の邪魔をする悪魔の所業であり、仏に仇をなす敵であると言うべきである。それは、自分自身に他力の信心が欠けているというだけでなく、誤って他人まで迷わそうとするものであって、亡き師・親鸞聖人の思召しに背いていることをつつしんでおそるべきであり、同時に、あわれにも阿弥陀の本願とはまったく異なった主張であると言わねばならない。