第十二条 意訳(2)

参考:『歎異抄講話3 高倉会館法話集』(著者:廣瀬杲 発行:法蔵館)
当時、専修念仏のひとと、聖道門のひと、諍論をくわだてて、わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなりというほどに、法敵もいできたり。謗法もおこる。これしかしながら、みずから、わが法を破謗するにあらずや。

ところでこの頃では、専ら念仏して往生を願う浄土門の人が、聖道門の人と仏法についての論議をたたかわして、自分の宗派の教えこそ勝れており、他の宗派の考えは劣っているなどというからこそ、いたずらに教法に敵対しようとする人も出てくることになり、結局は仏法を謗るというようなことも起こってくるのである。しかし、こうなることは、自分の信じている仏法を自分自身で破り謗ることに他ならないのではないか。


たとい諸門こぞりて、念仏はかいなきひとのためなり、その宗、あさしいやしというとも、さらにあらそわずして、われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものの。信ずればたすかるよし、うけたまわりて信じそうらえば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには、最上の法にてまします。

もし仮に他の宗派の人びとがみんなで、念仏などは愚かな者のための教えだから、そういうことを中心としている宗派は浅薄なものでしかないと言うたとしても、それに対して論争しようなどとは考えないで、私たちのような無能な凡夫、文字一つもわからない愚かなものが、ただ信じるだけですくわれるということを教えられ、それを有難く頷いて信じているのだから有能な人には浅薄だとみえようとも、この私たちのためにはこの上なく尊い教えである。


たとい自余の教法はすぐれたりとも、みずからがためには器量およばざれば、つとめがたし。われもひとも、生死をはなれんことこそ、諸仏の御本意にておわしませば、御さまたげあるべからずとて、にくい気せずは、たれのひとかありて、あたをなすべきや。かつは、「諍論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべき」よしの証文そうろうにこそ。

だから、このほかに勝れた教法があっても、私たち自身のためには、能力の及ばない教えであって、とても実践することはできない。もともと私たちもあなたたちにとっても、てもに生死の苦しみから解放されるということこそが、もろもろの仏たちの願っていてくださるご本意なのだから、どうぞあれこれと邪魔をしないでほしいと言うて、憎む心などを起こさないで、その人たちに接するならば、誰も好んで敵対することなどないであろう。殊に論争などをすると、いろいろな煩いや悩みが起ってくるものである。だから本当に仏智を信ずる人は、こういう無意味なことは避けるべきである、という古き人の証文もあることではないか。