鳥啼(な)いて山更に幽(ゆう)なり

縁あって、「坂木恵定」師の本を読んでいます。大変読みやすく工夫されているのですが、ざーっと読み進めるのはとてももったいない、力のある魅力ある言葉がいっぱいです。
父が死んだことを機関紙『崇信』の振込用紙に一言書いた時に、すぐ「お供え」として送られてきたのが坂木恵定師の『それでいいがや』でした。高島さんの心遣いがうれしかったのは言うまでもありません。以来ずっと気になっていたら、ようやく読む縁に出逢った気がしています。
長年、「娑婆即寂光浄土」という言葉に違和感を抱いてきました。おじいちゃんが「高光先生の言葉だ」とよくいっていたのですが、「“地獄は一定すみかぞかし”であって、感覚が違うのだろう」と思っていた。
ところが、この『えり好みがない世界』(坂木恵定遺稿5 発行:妙蓮寺)に、

(引用)
・娑婆の騒騒しさ、「ことり」ともいわぬ寂滅の世界
で、深い山や。「山奥に鳥が鳴いて静かなり」。静かな夜の山寺ぐらいへ行くと、まったく音がないわけや。ところがその時、たまたま鳥が鳴いたって言う。夜中に何かきゃんきゃんと言うたんやろ。それが静けさという。それで普通ならね、鳴き声はいらんがやろ(いらないでしょう)。「深山(しんざん)静かなり」、これでいい。鳴き声はいらん。これ邪魔者が来たんやろ(来たのでしょう)。邪魔者が来たけれど、ここにまあ注釈を加えるとね、これ「いよいよ」というんですね。「いよいよ静かなり」と、こうなるんです。
いよいよ静かなり。鳥が鳴いたっていうことによって、底知れない静かさがそこに出てくる。そういうことなんでしょ。
そこで、わしらのはこれ鳥が鳴いとるがや(鳴いているんです)。わーわー、わーわー、わーわー。「銭がない」とか、「足が痛い」とか「頭痛がする」とか、これは鳥が鳴いとる(鳴いている)。いよいよ静かな世界が分かってきた。「煩悩を断ぜずして涅槃を得(う)るなり」(『正信偈』)
煩悩成就のとこに寂滅の世界を知るんですよ。「生死即涅槃」(『正信偈』)とはそういうんでしょ。生死とは、死んだり生まれたり、ざわめいとる(ざわめいている)。そこに寂滅の世界がある、「生死即涅槃」、そういうことなんでしょ。それで「深山に鳥鳴いて静かなり」。
娑婆の騒騒しいのは、それに即して、もう「ことり」ともいわぬ寂滅の世界を知らしとるんです。そういうことながや。それは結局は、自分ていうものはこれいろんな計らいはあるもんやけどね、計らいの廃ったところに寂滅の世界があるんです。廃ると言うて、廃らんでも鳥がないとってもいいけんどね。そこに静かな世界がある。
(注)鳥啼山更幽(ちょうていさんこうゆう) 鳥啼(な)いて山更に幽(ゆう)なり(梁の王籍)
(引用終)

びくっとしました。
余談ですが、私だったら音を表現する時は「ことり」ではなくて、「コトリ」と書きたいですが、ひらがなに、編集した方の感覚・生で聞いて来た人の感覚が伝わるような気がしています。考えすぎかな(笑)