第十条(後半第十一条)

そもそもかの御在生のむかし、おなじこころざしにして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして心を当来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまわりしかども、そのひとびとにともないて念仏もうさるる老若、そのかずしらずおわしますなかに、上人のおおせにあらざる異義どもを、近来はおおくおおせられおうてそうろうよし、つたえうけたまわる。いわれなき条々の子細のこと。


そもそも親鸞聖人が、この世に生きておいでになったころ、同じ志をいだいて、関東から京都まではるばると歩みを運び、同一の信心のもとに、ただひとすじに真実の浄土へ生まれる身とさせていただいた同朋たちは、みな同じように聖人から教えのまことのおもむきを承ったのであるけれども、その人々につきしたがって念仏を申している老若のなかには、聖人の仰せとは異なる誤った了解をもとにした主張をする者も、近頃では数多くいるということを聞いている。それらの誤りを一つ一つ述べていくこととしよう。
歎異抄講話3』廣瀬杲 法蔵館


廣瀬先生はここからを第十一条としている。
第十条は「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。の一文をもって第十条、すなわち、師訓十か条の第十条と考える。

「そもそもそもそもかの御在生のむかし」と書き出されていく文章の中に、師親鸞によって教えられた念仏の本義に対する背反の事実が現実的に示されているということだけで、第十条と別立てにしようとしているのではありません。


この一文が「いわれなき条々の子細のこと」という言葉をもっておさえられているからなのです。
つまり「いわれなき」異義続出の現実を「条々の子細のこと」と語るところには、その「いわれなき」異義を「条々の子細のこと」として、一つ一つ丹念に教誡していかねば仏弟子の責任が果たせないという編者の心情がはっきり読み取れるからです。・・・
(『歎異抄講話3』廣瀬杲 法蔵館より一部抜粋)