「ただ」は絶対(和田稠先生の言葉)

聖道にたいする浄土、とこういえば相対的なものです。ご存じのように浄土といえば、聖道門にたいする浄土門、これは対立概念です。もうひとつは、浄土にたいする穢土、という相対的な意味があるんです。ですから浄土といえば必ず穢土が入ってくる。穢土にたいして浄土。一方は、聖道にたいして浄土。そういう両方をもっている、浄土という言葉は。
親鸞真宗という場合は、浄土真実といいますが、そのときの浄土は穢土にたいする浄土ではないんです。聖道にたいする浄土でもない。そのあたりがいつも混乱するのではないのか。親鸞は真実というんですよ。ある意味ではこれは絶対無限です。穢土にたいする浄土とか、聖道にたいする浄土という意味ではない。「ただ念仏ひとつ」というときに、「ただ」というのは絶対でしょ。相対的立場でいっとるんではないですよ。
(和田稠先生の言葉)