『歎異抄三条』意訳(1)

参考:『歎異抄講話1 高倉会館法話集』(著者:廣瀬杲 発行:法蔵館)
三 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。
しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。
そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

善人でさえも阿弥陀の浄土に生まれることができます。まして、悪人はいうまでもありません。
ところが世間一般の人々は、つねにこういいます。「悪人でさえ浄土へ生まれるのなら、善人が生まれることは当然である」と。これは、一応、道理にかなった言い分のように思われますが、実は、阿弥陀の本願・他力の救いの精神には背くことなのです。
なぜかと申しますと、自分の力をたのみにして、善行を励み、それによって悟りを開こうと思っている人びとは、ひとすじに他力をたのむという心がかけているのですから、阿弥陀の本願に背いていると言わねばなりません。しかし、この人びとも、地力をたのむ心をひるがえして、他力を信ずる身になるならば、真実の浄土に生まれるものとなるのです。

煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。
よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。

よくよくふり返ってみますと、煩いと、悩みとをかけめなく身にそなえている私たちは、どのような修行に励んでみても、この迷いの人生を離れきることなどは決してできません。このような私たちを大悲のお心でみそなわして本願をおこしてくださった阿弥陀のご本心は「ただ悪人こそ仏とならしめん」ということの外にはないのです。だからこそ、他力をたのむ悪人こそが必ず阿弥陀の浄土へうまれることの決定したひとなのです。
それゆえに、善人でさえも浄土へ生まれることができるのであれば、まして悪人の往生は当然のことであると言うたのです、と教えてくださいました。