生まれた意義の回復を 真城義麿(ましろよしまろ)/大谷中・高等学校長

http://books.higashihonganji.jp/defaultShop/disp/CSfDispListPage_001.jsp?dispNo=001002
小冊子「報恩講」一冊60円 より
「住職さんよ。わしらも若い頃は元気でよかったが、年とったらつまらんようになりましたわい」。
勤めていた学校を転勤し、瀬戸内の小島の寺に帰って住職となってすぐの頃の衝撃的な言葉でした。長生きできるのは人類始まって以来の夢が実現した素晴らしいことであるのに、高齢社会はそれを否定的にしかとらえません。どうすれば、「つまらん自分」から回復できるのか。機能が衰えたくらいで人間の尊さはひとかけらも損なわれていないはずなのに。

人間の価値や生きている意味を、「何ができるか、何をしたか」という機能的側面でのみていく社会。人間は、いきるいのちそのものとしての価値や意味を見失って、経済発展に資する材料としての「人材」になってしまいました。いつの間にか、人間に生まれた者が、機能やその成果、またその結果としての所有や地位でしか見られなくなり、私が私としてそのまま丸ごと認められることが困難になったようです。

どちらができるか、成果を上げるか、あらゆる分野で競争です。「人間」はますます「人材」になり、必要な期間のみ必要な機能に対価が支払われる流動的な部品として、瞬間の関係が結ばれます。それは、大切な関係にある人を見る時の眼も変えてしまい、どんなに身近な人をも自分の都合からしか見ることができなくなってしまいます。そして、お金さえあれば求めるモノもサービスも得られると、家族にも友人にも隣人にも助けを頼まず、気兼ねせず自分の都合で生きられると錯覚するようなお金中心の社会を、よかれと思って形成してきました。そして今、あらためて振り返ってみると、「こんなはずではなかったのに」の歎きが聞こえてきます。

親鸞聖人も若い頃、知恵のありったけを使って、考え、振り返り、学び、修行して心身を磨かれたのだと思います。そして、考えたこと、実践したこと、できたことを、ひたむきに積み重ねていかれたと思います。それは真摯な並大抵でない歩みであったに違いありません。

しかし29歳の時、法然上人との出会いは、そのすべてが「雑行(ぞうぎょう)」であったとの、根本的な転換となりました。考え成し遂げたことが問題なのではなく、救われたいと願う存在の一切をそのまま丸ごと肯定し、いかなる境遇にあってもすくい取ってくださるとの如来のご本願に、全面的にゆだねられたのです。その大きな安心の上で、自分に与えられた分を尽くしていくのです。
今日、あらゆる場面で、「できる」を競う私たちが、人間として、この私として生まれて、今ここに生きていることこそが、そのまま尊重され大事にされる世界を確信する場として、報恩講が開かれています。ともに宗祖のみ教えに戻り、自らの人間性を回復するその場に集うていただき、感動をともにすべく、お寺を開き、丁寧に場を整え、お荘厳(しょうごん)して今年も報恩講をお迎えするのです。
続く