田口ランディさんの言葉「阿弥陀様は私たちの内側にある全肯定的概念」

明日は法話。探し物、見つけた。
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若い人たちの「悩み」について、とてもお伝えしたいことがあります。今正体がわからない悩みが増えています。なぜ不安で辛いのかわからない、いつも重苦しいなどモヤモヤとした感じを抱えた若者が増えています。この悩みは、人に相談しても悩みとしては相手にされないので、本人も「悩みは特にないかもしれない」と思ってしまう。しかし、本人にはずっとこの気持ちがつきまとっているのです。悩みの前に悩みがわからないからもう力の入れようがありません。それが現代人の悩みです。
先に結論を言いますと、このモヤモヤの正体というのは自己肯定感のなさです。いまの若い人たちは、とてもエゴイスティックに見えたりポジティブに見えたりしますが、実は自己否定的なんです。わがままや自由気ままというものと自己肯定とはまったく関係のないことです。「私が私でいい」「私であっていいんだ」「これでいいんだ」という感覚は、人間が生きていく上での土台なのです。その土台の上に家を建てているのが人間です。ところがいまの若い人たちは、この土台を作ってもらえていないのです。この自己肯定感は、子どものころに親や家庭のなかで、両親や祖父母に囲まれて培われていくものなのです。
子どもというものは、全存在がいのちそのものみたいなものだから、小さい時期は多少嫌なことがあっても家庭のなかで、なんとなく「みんな人はいろいろなんだなぁ」という感じで、「俺は俺で、これでいいんだ」と自己肯定感をつくっていくのです。しかし、現代はそれができにくくなっています。しかも多くの大人は子どものときのことを忘れて大人の自意識で子どもの世界を見てしまい、無垢な子どもの世界に踏み込み「よい子」を押しつけてしまうのです。
本当はよい子に育っていなくても親は子どものことを愛しています。しかし、子どもが成績のよい、“まともな子”に育たないと、親の責任というプレッシャーを感じてしまい、結果的に大人の都合で親の気に入らない子どもの部分をばさっと切り捨ててしまう。だから子どもは、親の顔を見てうまく生き抜こうとします。こうやって、本当に真剣に、嘘のない世界で人間との信頼関係を築かねばならない時に、子どもたちは大人社会を身につけて小学校でもそれをやってしまう。だから小学校の中がとてもぎすぎすしてしまう。子どもは、小学校の時には、ぶつかり合ったり、けんかし合ったり、本気で言い合ったりするなかで、本音でぶつかり合っても大丈夫なんだという、人間に対する信頼感を育てなければならない時期なのに、それが出来なくなっているのです。すると自分のことを条件付きでしか好きになってくれない、なにかいろいろ条件を満たしておかないと、自分のだめな部分は人から切り捨てられてしまうと感じてしまう。そこにとても不全感を感じ、なにをやっても満たされないという感覚をもってしまいます。
今、この若い人たちを中心に、新しいタイプのうつ病が広がっています。非定形型うつ病とも呼ばれますが、一見うつに見えないし、本人もうつという自覚がありません。しかしあるとき突然、会社に行けなくなったりする。そこで病院へ行くと診断書を書いてくれるので、休みをとる。そうしたらとても元気になるのですが、翌日会社に行こうとするとまた、うつの症状が出てしまう。このような人がとても増えています。
そういう若者の悩みを私たちの世代は理解しがたいのです。いくら必要だとわかっていても、「甘え」というものについてマイナスのイメージをもって育てられているから、肯定的になれず、説教をしてしまうのです。しかし、このような人たちは甘やかされて育っているように見えますが、一度も無条件で甘やかされていないし、その実感もありません。また、親が望むオンリーワンを目指してきたから、自我意識だけはとても強いのですが、自己肯定感が弱い。自己肯定感とは、「生きていい」という感覚で、他者とのつながりのなかで生まれます。だから私は自己肯定できなくては、他のいのちへの共感も薄いし、いのちの尊さはわからないと思います。
こういう不全感を持っている人たちは多かれ少なかれ「自己愛障害」を持っていて、こころのどこかで愛されなかったということへの何ともいえないいんうつな恨み感を抱えています。それも本人は自覚はしていません。
阿弥陀様というのは、あなたがどんな人間でも救おうぞ、という本当の全肯定の存在だと思います。私たちが、この浄土真宗の信仰を八百年持ち続けてきているということは、人間のこころのなかに、全肯定されるイデアというか、概念というようなイメージが存在しているからだと思います。阿弥陀様は外にあるというより私たちの内側にある全肯定概念だと感じています。それを言葉によって呼び覚まそうというのが「南無阿弥陀仏」ではないかと思います。
この自己肯定という土台が弱くなってきた時代に、人間にとって、阿弥陀仏無量寿光という全肯定の存在というのは、再発見されるべき日本の宝物でないかと感じています。(2009.3.21.真宗大谷派主催「親鸞フォーラム」東京国際フォーラムにて)

阿弥陀様は私たちの内側にある全肯定的概念。