来迎たのむことなし

(一)来迎は諸行往生にあり。自力の行者なるがゆえに。臨終というは、諸行往生のひとにいうべし。いまだ、真実の信心をえざるがゆえなり。また、十悪五逆の罪人の、はじめて善知識におうて、すすめらるるときにいうことばなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚のくらいに住す。このゆえに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき、往生またさだまるなり。来迎の儀式をまたず。
『末燈鈔』(親鸞聖人のお手紙)

ちょこっと法話の機会が続くので久しぶりにパソコンに向かう。「来迎まつことなし」、ってどこだったっけ、たしか『唯信鈔』か、『唯信鈔文意』、いや、『唯信鈔文意』ではない…なんて呟きながら真宗聖典を開くが見当たらない。実は意を決して真宗聖典をリニューアルしたので、たどりつけない。なさけなかったが、以前の愛用品をひっぱりだした。『末燈鈔』だった。しかも、「来迎まつことなし」ではなく、「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」だった。来迎はそもそも待つものでないのであった。
ということで、すっかりぼけぼけの愚痴を書きとめて、息抜きとし、もうちょっとがんばることにする。とはいえ夜更かしはできない。明日は金沢別院報恩講出仕、差貫を忘れないようにしなければ。