復活三部作2「慢」

「邪見憍慢の悪衆生(『正信偈』)」人間をつぶさにおさえた言葉 
憍 自分について自らの心のおごり高ぶること
慢は他と比較して起す驕(おご)りで根本的な煩悩とされるが、憍は比較することとは無関係に起る。家柄や財産、地位や博識、能力や容姿などに対する驕りで付随して起す煩悩であるとされる。これを随煩悩ということもある。(ウィキペディア「慢」より)
八憍とは、盛壮憍(元気であるという誇り)、姓憍(血統が優れているという誇り)、富憍(お金持ちだという誇り)、自在憍(自由だということの誇り)、寿命憍(長生きであるという誇り)、聡明憍(頭が良いという誇り)、善行憍(良い行いをしているという誇り)、色憍(容姿の誇り)。
慢 他に対して心がおごり高ぶることを慢と言います。自他を比較して、他を軽蔑し、自らをたのみ心が高ぶる。
慢・過慢・慢過慢・我慢・増上慢・卑慢・邪慢の七慢の総称としても用いる。また八慢、九慢とすることもある。いずれにしても、他と比べて自らを過剰に評価して自我に捉われ固執し、福徳や悟りを具えていないのにそれらを修得していると思い込む煩悩をいう。(ウィキペディア「慢」より)
仏教の言葉というのは人間の存在をつぶさに言い当てる、言い表している。
いかなる生物生類(いきものしょうるい)であっても、怯(おび)えているものでも強剛(きょうごう)なものでも、悉(ことごと)く、長いものでも、大きなものでも、中くらいなものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大(そだい)なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すぐに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。(「ブッダのことば」(スッタニパータ)より 中村元訳)
一切の生きとし生けるものを言葉にする、そこに深く感銘する。阿弥陀仏の救済が「一人ももらさない」というのは、邪見憍慢ということばでひとつひとつ言いあてられる私が決してもらされることなく、見捨てられることなく、「わが名を呼べよ、南無阿弥陀仏」と呼びかけられる。