大悲無倦(だいひむけん)

気になってしょうがない言葉がある。大谷専修学院時代、先輩が「ちーぼう」なんて影で呼んでた竹中智秀院長先生の言葉。先日お気に入りのブログで見つけた。

出来る人には居場所が与えられ、
出来ない人には居場所が与えられない

「坊主の家計簿」よりhttp://blog.goo.ne.jp/erovows/e/82a33fad35ba569fa1394999ac6c12cf

そこでこの言葉に『正信偈』の「大悲無倦」を飾って、「居場所を与えない私が知らされる」と添えて、暑中見舞いを作った。(手書きなので写真アップなし)そういえば以前私の年賀状が葬式の案内かと思ったと言われた事があったな。
歎異抄』という書物は、親鸞聖人の言葉と親鸞聖人が亡くなった後の時を生きた人の言葉である。歎異というのだから、異なるを嘆くということなのだが、親鸞聖人にお伝えいただいたことを同じく聞いたはずのものたちが間違っていると指摘するようなことではないのだと、歎異されるのは自分自身であるに違いないこということを、久しぶりに竹中先生の言葉にふれて思う。

よくよく考えてみると、天に舞い地に踊るほど喜ぶべきはずのことを喜べないからこそ、いよいよもって往生は決定していると思うべきです。
思えば阿弥陀は、急いで浄土へ参りたいという心のないものを、ことのほかいとおしんでくださるのです。それならばこそ、いよいよ大悲・大願は心強く、また往生は決定しているのだと思うべきであります。
歎異抄』第九条 意訳:『歎異抄講話(法蔵館)』廣瀬杲