CSI:マイアミが好き その2

忘れもしない、父が死んだとき、Sさんが電車を乗りついて、タクシーを飛ばして青い顔でお弔いに来てくれた。その時にこういった。「いのちの厳粛さを感じます。」私はつい「どんな死に方をしても?」とたずねた。「はい、どんな死にでも」と言われたことをずっと探した。
正信偈』のはじまりの言葉は南無阿弥陀仏、その次に法蔵菩薩の物語が展開されます。
ほうぞうぼさいんにんじ、ざいせじざいおうぶっしょ、法蔵菩薩因位の時、 世自在王仏の所にましまして、とけんしょぶじょどいん 諸仏の浄土の因、 国土人天の善悪を覩見して、
阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩やった時に世自在王仏という方に出遇って感動する。(世自在王仏は、世の衆生を自在に救う慈悲と、世間を自在に知る智慧をそなえた王のようであるという名。)そして、その感動は願いになって、「全て者が救われる世界を展開したい、どうしたらよいのでしょうかと問う。」(発心という。)問われた世自在王仏は「人のこたえをきいてもだめだ、自分の願いでなければならない」といった。そして法蔵菩薩は世自在王仏に二百一十億の世界を見せてもらう。(眉間の白亳相。)ありとあらゆる仏の浄土の成り立ちと、それらの浄土にいる人々の有様をつぶさにお示しになった。
とけんしょぶじょどいん 諸仏の浄土の因、 国土人天の善悪を覩見して、
全て者が救われる世界を展開したいという願いに応えて見せてくれたのは、他の事でない、何か摩訶不思議な特別なことでない。それは二百一十億の世界の一人一人の生涯。その生涯は喜び・悲しみがあり、そしてどのようにいのちを終わっていったかを見た。どのいのちにも手をあわせねばならないような静けさがあった。厳粛ないのち、生死を見た。   (佐野師のことば・法話原稿より)

マイアミを観ているとよくこの言葉を思う。だからマイアミを語ると熱く、むしろむさくるしくそして長くなる、それでうんざりされて、あんまり聞いてもらえない。だからまた続く。マイアミが好き。