流罪記録 現代語訳

千葉乗隆の安楽仏教研修会 第369回 より  http://www.anrakuji.net/bukken/bukken369.html
  後鳥羽上皇が政治を執っておられたとき、法然上人は他力本願念仏宗を興し広められました。そのとき、奈良の興福寺の僧たちが、聖人は仏の教えにそむくものとして、朝廷に訴えました。そのうえ聖人のお弟子のなかに無法な行いをする者がいると、無実のうわさをたてられて、罪人として処罰された人々の数は次のとおりです。

一 法然聖人ならびにそのお弟子七人は流罪になり、また四人のお弟子は死罪に処せられ ました。法然聖人は土佐の国の幡多というところへ流罪になり、罪人としての名は藤井元彦、男性、年齢七十六歳です。

  親鸞は、越後の国に流罪となり、罪人としての名は藤井善信といいます。年齢は三十五歳です。

  浄聞房は、備後の国。澄西禅光房は、伯耆の国。
  好覚房は、伊豆の国。行空法本房は、佐渡の国に、それぞれ流罪となりました。
  幸西成覚房と善恵房の二人は、同じく流罪と決まっていましたが、比叡山無動寺の善題 大僧正(慈鎮和尚)が身柄をひきうけ、流罪をまぬがれました。

  死罪に処せられた人びとは、
  一 善綽房西意、二 性願房、三 住蓮房、四 安楽房でした。

  これらの刑は二位法印尊長の裁定です。

  親鸞は、流罪になったとき、僧侶の身分をとりあげられて、俗名をあたえられました。そこで僧侶でもなく俗人でもない身となりました。ここにおいて、禿の字を自分の姓とし、そのことを朝廷に申しでて認められました。そのとき申しでた文書が、いまも外記庁に保管してあるといいます。流罪の後は、愚禿親鸞 (愚かな未熟者の親鸞)と、自分の名をお書きになりました。

〔奥書〕 
  この『歎異抄』は、浄土真宗にとって、大切な聖教です。仏法に縁のない人には、安易に見せてはいけません。
                                釈蓮如(花押)